2025年水無月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき ※)』は、本願寺教団の再興を成し遂げた第8代蓮如の言行録で、蓮如が語った具体的で平易な教えや、人々と向き合う生き生きとした姿を今に伝えています。

 蓮如は27歳で結婚しますが、41歳のとき妻と死別します。さらに再婚した妻や頼りにしていた長男をはじめ多くの子どもたちにも先立たれるという別離を経験します。別れを悲しむこの身も明日あるとも分からない命を生きているという、諸行無常(しょぎょうむじょう)の厳粛なありようを、誰よりも痛感していたはずです。

 標題の言葉は、「私たちはいつ終えるともわからない命を生きているのであり、今日という日でさえも全うされないと思え」という大変厳しい言葉です。このような言葉を投げかけられると、私たちは不安を感じたり、暗い気持ちになるかもしれません。避けることのできない「老・病・死」という身の事実の前では、どれほどのお金や社会的地位であっても空しいものに感じられます。

 しかし、この言葉は、毎日を何気なく、当たり前のように過ごしている私たちを立ち止まらせ、今という一瞬のかけがえのなさに気づかせるものでもあります。しかも、ここでは一度限りの人生を大切に生きなさいと述べているだけではありません。この言葉に続けて、「仏法のうえにては、明日のことを今日するように」と語っています。仏法のことは、明日できることでも繰り上げて今日するべきだと。

 仏法とは、自己とは何か、私が本当に大切にすべきこと、私の本当の願いとは何か、そうした人生の根本問題を明らかにするものです。ところが、そうした問いが心の底から湧(わ)き起こっても、日常生活の雑事に追われる中で、いつの間にかかき消され、優先順位は低いままになっていないでしょうか?

 私たちに与えられた時間は無限ではありません。死にゆく命を生きる私たちは、人生の根本問題を問い続け、応答し続けなくては、どれほど華やかな生活を手に入れたとしても、こんなはずではなかったと、空しく終わってしまうのでしょう。この言葉は、そんな私たちの生活全体を問い直し、人生の出発点にあるべき大切な問いに今すぐ向き合うよう呼びかけているのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

『蓮如上人御一代記聞書』

大谷大学HP「きょうのことば」
2024年5月より
教え 2025 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「あの人は無分別な人だ」という言い方があります。後先考えず、身勝手に事を行うというような意味でしょうか。無分別ということは、分別が無いということですが、分別ということについて親鸞聖人は、「ききわけ、しりわくる」と言われます。聞き分け知り分けるということです。
 私たちは、物事を分けて判断し、それを知るということです。これは正しいか間違いか、成功か失敗か、好きか嫌いか、役立つか立たないか、損か得かなど。その判断の中心には、まず「私」があって、物や人や事がらを見ています。そしてその物や人や事がらについて、「私」が比べて、あれは好きか嫌いか、あの人は敵か味方か、この事は善か悪かと判断するのです。それを仏教では「分別」と言います。この「分別」は、どうしてもそれを見る「私」を中心に判断しますから、ものの見方は「私」を中心に偏(かたよ)ることになります。それに対し仏様の智慧(ちえ ※)は「無分別智(むふんべつち)」と言われます。「私」を中心に物事や人を見ないで、あるがままに見るということです。比べて分けることはありません。
 しかし私たちは、「私」を無くして比べることを止めることはできません。それで、分けて比べるだけでは済まなくて、あの人たちと私たちは違う、違うことは好ましくない、好ましくないのは良くないことだ、良くないから悪い、悪いから敵だ、敵だから認めない、認められないからやっつけろと、分けて比べる私たちの「分別」に付け込んで、分断を煽(あお)り、対立を激化させる論調や風潮に踊らされやすいのです。だからこそ、踊らされないよう、「無分別智」の教えに、常に学ぶことが大切だと思います。

智慧
自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2025 06

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは、何をもって「いい」「悪い」と言っているのでしょうか。それは、何事に関しても良し悪しを決めようとする、私の価値観やモノサシが作用していることに他なりません。このことは日々の様々な場面で直面します。
 私のお寺の境内では2匹の猫を飼っています。その1匹エリーは、2010年、ある方が、「境内で飼ってくだされば、いつでも会いに来られる」とお寺へ連れてこられました。寺はにぎやかなアーケード商店街に面しています。エリーは商店街を堂々と歩いて、日中は近所の行きつけの店を巡回し、夜中も境内を抜け出し、門前でゴロゴロすることは日常で、いつの間にか、ちょっとした「有名猫」になっていました。
 そんなエリーがある日、姿を消しました。連れ去りだったのです。それから約2週間後、奇跡的に救出され無事帰ってくることができました。警察署へ迎えに行った時、毛の艶(つや)もよく、外見は連れ去られる前と何の変化もなかったので、可愛がってお世話してもらっていたであろうことが想像できました。連れ去った人の本心は分かりません。しかし、私たち家族と、必死で捜索に協力してくださった方々にとっては許されない行為です。
 このことは、全国テレビやネット上でもニュースになり、たくさんの意見が投稿されました。その中には、連れ去りに対する批判だけでなく、外で飼っていたことへの批判もあったのです。元々は境内で飼うことを前提にして、そして多くの方に可愛がられていたので、私としては「いい」と思っていた行いに対しての批判に、ハッとさせられました。
 相手への思いやりのつもりが、逆に迷惑に思われたことは大いにあるでしょう。物事を自分勝手な解釈や価値観だけで判断したときは、他人には受け入れられない場合も往々にしてあります。また、それを指摘されてもなお自分の過(あやま)ちに気づけないこともあります。私自身、今まで気づくことがないまま自分本位の「いい」をしているかもしれない…と思うと恐怖さえ感じます。

 人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。
(『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき ※)』195・『真宗聖典 第二版』1064頁)

と蓮如上人は教えてくださいました。私たちは誰でも善悪をはかるモノサシを持っています。しかし、人それぞれその尺度が違うので、自分の「悪い」ところは差し置いて、他人の悪いところはよく目につくものです。
 このたびの出来事を振り返って、私自身の行いがいいのか悪かったのか、末だ迷っています。だからこそ仏さまの教えを聞くご縁をいただき、立ち止まって「自分自身はこれでよいのか」と問い続けることが大切なのではないかと思います。
 今も、猫たちを見に多くの方がお寺をおとずれます。会えるだけで嬉しいと話してくださる方を横目に、エリーは外で自由に動き回っています。「常に私中心」の身である事実を、エリーは教えてくれているように思います。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

郡 伸子氏
真宗大谷派 圓光寺(愛媛県)

『今日のことば(2024年)』
(東本願寺出版)より
法話 2025 06

著名人の言葉

言の葉カード

 若い人たちのあいだで「セルフラブ」が流行っているようで、いいことだと思う反面、「セルフ=自分」に囚われすぎないようにねとおせっかいをやきたくなってしまうところもある。ぼく自身が若いころに通った道だからだ。
 ぼくの時代、それは「自分探し」だった。
 あれは大変だった。自分の奥へ入っていけばいくほど日は当たらないし、じめじめ湿っているし、「どこまで行っても終わりがないな」と気づくのに何年かかかった。
 自分なんて他人だ、と思っているくらいが意外と調子がいい。
 自分でコーヒーを淹(い)れて「あ、ぼくにコーヒー淹れてくれるんですか、意外といいとこありますね」なんて思っていると、それはもうセルフラブではないか。
 勤め先で理不尽なあつかいを受けている友人にそんな会社辞めなよといくら論(さと)しても言うことを聞いてくれなかったが、「じゃあ、あなたの友だちがおなじ環境にいたらなんて言う?」と尋ねると「辞めろって言う!」と即答した。
 他人だ、と思っているくらいが判断が鈍らない、ということはたしかにあると思う。

森泉 岳土(もりいずみ たけひと)氏
マンガ家

月刊『同朋』2024年7月号
(東本願寺出版)より
著名人 2025 06