

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)という世界は、悪を転じて徳を成す世界です。悪というものを消し去って徳に成るのではなく、悪が徳へと転じていく。光があたることによって、雨上がりの虹のように、悪がそのまま徳へと転じていくのだと親鸞聖人は仰っておられます。これは一体どういうことなのか、私に仏教を教えてくださったとある先生が、梅干しのたとえ話をしてくださいました。
青い梅は、そのままでは食べることができないわけですが、その青い梅を綺麗に消毒して、塩や梅酢、しその葉に付け込んで、やがて梅雨が明けた頃に天日に干し、しばらく熟成させることによって、青い頃には毒があった梅が、薬ともなる梅干しへと転じていく。つまり、毒が消え去って梅干しになるのではなく、毒を抱えたまま、いろいろな手間暇をかけることによって、あるいは光に照らされることによって、薬へと転じていくんだと。私はこの梅干しのたとえ話がとても心に残りました。
悪、あるいは毒とはなんでしょうか。様々なことが言えるかと思いますが、それは人間が抱えるこの世の生きにくさ、辛さ、苦しみ、悲しみと置き換えることができるのではないかと考えています。それらが綺麗さっぱりなくなって、徳と呼ばれる世界を獲得するのではなく、悲しみや苦しみを大事に抱えながら、それが教えの光に照らされることによって、我が人生を照らし出していく道しるべのような、あるいは薬のような役割へと転じていく、そういう世界なのではないかと受け止めています。
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(親鸞)
酒井 義一氏
真宗大谷派 存明寺(東京都)
大谷祖廟「暁天講座」より
教え 2025 02