「聞けば気の毒、見れば目の毒」
東北の震災のとき、「てんでんこ」ということばが耳を引いた。「てんでんこ」、津波が来たときには他人にはかまわないでとにかく逃げるということ。これは、何をおいても一刻も速く、ということで、「我先に」という意味ではない。ひとは仲間を捨て置くことはできず、手を貸そうとしてつい逃げるのが遅れるから、みなが助かるためにはそれぞれに一目散、高台へ向かえ、という意味だという。
「聞けば気の毒、見れば目の毒」も、たしかに、知らずにいればすむことを、なまじ聞いたり見たりしたために、心がひどく揺らいてしまうことを言っているのだが、これを裏返せば、それほどにひとは他人の苦しみ、悲しみに心をなびかせずにいられないということなのだろう。ひとは他人の苦しみに苦しみ、悲しみに悲しむのだ。
英語で「同情」や「共感」のことを、シンパシーとかコンパッションという。これも語源をさかのぼれば「苦しみを共にする」という謂(いい)である。
だから、その苦しみ、悲しみを取り除いてあげられないとき、苦しみや悲しみはさらにきびしいものとなる。最後の最後、目をつむり、見捨てるほかなくなる。
「猿を聞人(きくひと) 捨子に秋の 風いかに」
猿の声は悲しいもので聞くひとの胸を締めつけると昔から言われてきたが、秋風のなかで泣く捨子の声は、それとは比べものにならないくらいに哀れに聞こえないか、と芭蕉は心のなかで詠んだ。そして袂(たもと)から一時(いっとき)の食い物を取り出し、子のもとに置いて通り過ぎた。そのときこの子を捨てた親の思いにまで心をなびかせ、いっそう深く哀れんだことだろう。これもまた「てんでんこ」の一つのかたちである。
かつて金子郁容(いくよう)は、現代のボランティアを、あえてじぶんを傷つきやすい場所に身を置くことだと言った。「聞けば気の毒、見れば目の毒」とわかっていて、それでも被災地に行き、聞こう、見ようとしたのが、震災ボランティアだった。苦境のなかにあるひとの話を聞きながら、しのびない、返すことばがないという思いに身もだえしながら、きっと思い知ったことだろう。聞き流す、あるいは聞かなかったことにするという心ばせをどこかで持たねば、最後まできくことはできない、と。
鷲田 清一氏
哲学者
『シリーズ人間の問い②』
(東本願寺真宗会館)より
著名人 2024 09