仏さまのご恩に感謝する心も、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏申す生活の中で、いただかれてくる心なのでしょう。
自己主張と自分中心の見方が私たちの日常です。そこからは、どんな感謝の心も生まれてきません。
自分の思いが中心ですから、思い通りになれば自分を誇り、思い通りにならなければ自分を卑下(ひげ)します。周りに対して文句を言い、愚痴(ぐち)を吐き、人と比べて優越感を感じたり、劣等感に沈んだりを繰りかえしているのです。
そこには、ほんとうの意味での満足は無いのでしょう。
南無阿弥陀仏と称(とな)える中で、自分の思いに振り回されている私に、ほんとうの意味での満足、つまり感謝する心が与えられる。だから、南無阿弥陀仏を尊号と言うのでしょう。
このように、繰りかえし南無阿弥陀仏と称える生活の中で、この私に「ありがとう」の心が与えられていくのですよ、と教えてくださっているのが、「仏恩(ぶっとん)報ずるおもいあり」と結ばれる、今回の和讚(※)なのだと思います。
- 和讚
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
「正像末和讃」(親鸞)
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
『和讃の響き―親鸞の声(うた)を聞く』
(東本願寺出版)より
教え 2024 10