2024年神無月(10月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 仏さまのご恩に感謝する心も、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏申す生活の中で、いただかれてくる心なのでしょう。
 自己主張と自分中心の見方が私たちの日常です。そこからは、どんな感謝の心も生まれてきません。
 自分の思いが中心ですから、思い通りになれば自分を誇り、思い通りにならなければ自分を卑下(ひげ)します。周りに対して文句を言い、愚痴(ぐち)を吐き、人と比べて優越感を感じたり、劣等感に沈んだりを繰りかえしているのです。
 そこには、ほんとうの意味での満足は無いのでしょう。
 南無阿弥陀仏と称(とな)える中で、自分の思いに振り回されている私に、ほんとうの意味での満足、つまり感謝する心が与えられる。だから、南無阿弥陀仏を尊号と言うのでしょう。
 このように、繰りかえし南無阿弥陀仏と称える生活の中で、この私に「ありがとう」の心が与えられていくのですよ、と教えてくださっているのが、「仏恩(ぶっとん)報ずるおもいあり」と結ばれる、今回の和讚(※)なのだと思います。

和讚
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

「正像末和讃」(親鸞)

 吉元 信暁(のぶあき)氏
  九州大谷短期大学学長
 『和讃の響き―親鸞の声(うた)を聞く』
 (東本願寺出版)より
教え 2024 10

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 運動会というと思い出すことがあります。お寺の子ども会に通って来てくれていた年長さんのTくん。「運動会は終わったの?」と尋ねると、元気よく「うん! 昨日で終わった」と答えました。その答えに思わず笑ってしまいました。
 「昨日だった」と言わずに「昨日で終わった」と言ったところにTくんの思いが込められています。秋の運動会でしたから、夏休み明けから始まって、毎日毎日運動会の練習があったのです。体操、リレー、ダンスなどなど。
 Tくんにとっては、毎日が真剣勝負の運動会です。その長い長い運動会が「昨日で終わった」のです。今日はまだ本番ではない、これは稽古、練習だからと手を抜いたり本気でなかったり、おとなの私たちは案配(あんばい)しますが、Tくんはいつも本気で本番の運動会です。
 よく考えてみると、一日一日が本番の一日なのです。あれは練習だったのでもう一回やり直しますということができないのが毎日です。それなのに、今日は来週のための稽古の日、来年のための準備と、自分の思いで手を抜き本気にならなくてよいと案配します。
 その案配を、仏教は「分別(ふんべつ)」と言います。自分の都合や予想の思いで、今日は五分でとか、八分でと考えたり、今日こそ十二分に力を出そうと分別するのです。それができるのが世の中や生き方をわきまえたおとなの分別とされます。
 しかし、もう二度とない一日をそのままを受け取ることが、仏様の智慧(ちえ ※)無分別なのでしょう。その智慧から、私たちの計算や案配といった分別の心が、それでよいのかと問われています。

智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2024 10

僧侶の法話

言の葉カード

 キリスト教の賛美歌は有名ですが、実は仏教讃歌もステキな曲がたくさんあるんです。本堂にご近所さんやご遠方の方々が集い、そのコーラスの練習中のこと。
 お腹からしっかりと声を出すのは案外難しく、きちんと立つ姿勢を保つのもなかなか大変。思いのほか体を使うので、恥ずかしながら芸術というより体操をやっているような(苦笑)。それでも先生は、色々と示唆に富んだ芸術的な話をしてくださいます。それは仏教と通じるのでしょう。音楽の話が、まるで法話を聞いているように受け止められることもたびたびです。そこでこんなご指導を受けました。
 楽譜の中の記号pp(ピアニッシモ)は「ごく弱く」を意味し、f(フォルテ)は「強く」ですが、「ピアニッシモはフォルテよりも強いんです」と語った先生。「え? 逆なのでは?」とキョトンとした私たちを見て、先生はさらに仰いました。「例えば、本当に苦しい時や、強い愛を伝える時は、大声で『苦しい!』とか『愛してる!』と言うより、絞り出すような表現になるでしょう? 心の底から込み上げて来るような思いは、たとえ強くても、それが深くて重いほど、大きな声にはならないですから」。だから単に小音ではないピアニッシモを奏でるのは、とても難しいのだと。なるほど、あらためて音楽の深さを感じました。
 さて、ピアニッシモを表現するのと同様、それを聞き取ることも難しいのでしょう。大きな声が小さな声をかき消していく現代。声にならない叫び、自分自身の内なる声、死者たちの声に、私たちはどれだけ耳を傾けているでしょうか?

久万寿 惠美氏
真宗大谷派 林光寺(東京都)

東京教区ホームページ「暮らしにじぃーん」
法話 2024 10

著名人の言葉

言の葉カード

 幼い頃から、ものづくりがすごく好きでした。とは言っても、紙粘土で貯金箱を作ったりする小学生の工作のようなものですが、私はそういう工作が高校生になっても好きだったんです。ただ、さすがに高校生にもなると、例えば役に立つロボットや、おしゃれでデザイン性のあるものなど、「ちゃんとしたもの」を作ることが求められているような気がして、徐々にやりづらさを感じるようになってしまいました。
 そんな時に思いついたのが「無駄づくり」という言葉です。この言葉のなかでものづくりをすれば、それが単なる工作でも、失敗だったとしても、「無駄づくり」なのだからそれで良い。私が好きなことが、何かの基準によってふるい落とされずにすむんじゃないかと思ったんです。「無駄」というのは、ネガティブな言葉かもしれませんが、「役に立たないものでもそこにあって良い」という包容力みたいなものがある気がして私はすごく好きです。
 ものづくりに限らず、人もきっとそうですよね。効率的で生産性がある人に「価値」があると評価される時代ですが、それだけではないはずです。自分は役に立たないと悩んでいる人でもそこに居て良いし、ふるい落とされるのはおかしいと思います。これは仏教の思想とも少し通じる部分があるのかもしれませんね。

藤原 麻里菜氏
無駄づくりクリエーター

月刊『同朋』2024年3月号
(東本願寺出版)より
著名人 2024 10