やる気に満ちあふれた興奮状態は、誰もが経験することでしょう。私も学生時代、部活動で心が昂(たか)ぶることがありました。その結果、勢い余って怪我をしたり、仲間に迷惑をかけたりしていたので、よく昂ぶりを抑えるように指導されていました。
しかし興奮した私には、その指導の声が届かず、ようやく聞く耳を持てたのは、選手としては致命的な怪我をしてしまった時でした。
練習以上の力を出そうと、必要以上に力むより、周りのアドバイスに耳を傾け、いつも通りにやろうとリラックスした状態で集中した方が良い結果に繋がるのだと、この時に学ばせて頂きました。
心が昂ぶり、平静を失った状態になる煩悩(ぼんのう)を「掉挙(じょうこ)」といいます。心も身体も溌剌(はつらつ)と元気な時もあれば、鬱々(うつうつ)と暗く沈み疲れることもあります。心のバランスを取るためには、個人の努力だけでは難しいものです。周りの方々のアドバイスが自然と聞こえてくるようになるには、普段から聞く姿勢を持つ習慣が肝心です。
仏教では先ず「聞く」という姿勢を大切にしています。法座(※)が開かれる時、唱和する『三帰依文(さんきえもん ※)』の言葉の中に「仏法(ぶっぽう)聞き難し、今すでに聞く」とあります。古くから聞く姿勢というものを大切に伝え続けてきた習慣なのです。お念仏がその扉を開いてくれます。
- 法座
- お寺などに集まり、お話を聞くこと。
- 三帰依文
- お釈迦さまが説かれた「法」、法に目覚めた「仏」、法を依りどころとする人の集まり(=「僧」)の3つを「三宝(さんぼう)」といい、「そのことを大切な宝ものとして生きていきます」と、法話の前などに唱和される文。
『三帰依文』
『教化センターだより』NO.431
(大阪教区教化センター)より
教え 2024 11
仏教が説く「魔」は、キリスト教やイスラム教に見られる、神に敵対し滅ぼそうとする外なる悪魔ではなく、私たち自身の中に魔に誘われ魔になっていく問題があるということです。
私たちは日常的に、事故に遭わないようにお守りを付ける、病気にならないことを願ってお祓(はら)いを受けることがあります。これだけなら魔は発生しません。事故が起こったからといってお守りを発行したお寺に文句を言ったり、病気に罹(かか)ったからといってお祓いをした神社を訴えるということはないでしょう。
魔は、事故を起こして、しまったと困っている私たちの弱みを襲うのです。「ちゃんとお守り付けていましたか」「いいえ付けてません」「だからですよ、やっぱりお守りは付けないと」と言って、お守りを付けていたら事故は無かったのだと私たちを誘います。
あるいは病気になって気が弱っている時に、「だから、厄払いにお祓いを受けようと誘ったのに、来ないからだ」と、お祓いさえ受けていれば病気に罹らなかったのだと強調します。
しかし事故の原因はお守りを付けていなかったことではないでしょうし、病気になったのはお祓いを受けなかったからではないはずです。でもそう言われると、付けなかったり受けなったことが悪かったのだと思わされ、お守りを付けお祓いを受けようと考えてしまいます。
これが魔に誘われて、事実をしっかり見つめる眼を奪われ、魔になっていく私たちの問題です。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2024 11
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保育園の園長をしていると、心配事も絶えませんが、楽しいことも常に起きます。その中でも子どもたちと会話ができるのは本当に楽しいです。ゼロ歳児から入園した子どもなどは、発語さえおぼつかなかったのに、段々と言葉を発し会話となっていく過程を見ることができます。成長とはこのことかと、我が子のように嬉しくなりますね。
そんな子どもたちは、私に対しても時に甘え、時にぶつかって、時に思いがけない言葉で驚かせてくれます。
例えば、こんなことがありました。内科検診の順番待ちで、子どもたちが廊下に座っていました。そんな時、3歳児クラスの子どもが私に聞いてきたのです。
「園長先生は、大きくなったら何になりたいの?」
えっ? と少し戸惑った後、私は自信ありげに言いました。「園長先生は、立派な人になります!」と。すかさず尋ね返します。「じゃ、◯◯ちゃんは何になりたいの?」。その子は私をまっすぐ見て言いました。
「私はね、地震からね、みんなをね、助けたいの」
園長先生(=私)は、大きくなるどころか、自分のことを小さく感じました……。
小さく感じた理由は、子どもは立派なことを言ってくれるのに、それに対し、自分の発言の陳腐さもあったでしょう。でも、もう一つは自分の中で「大きくなったら」のビジョンがなかったこともあると思います。大人にとって「大きくなったら」とは何を意味するのでしょうか。子どもの時は「将来の夢」として大きくなった自分を考えます。その夢が叶う人も、そうでない人もいるでしょう。しかし、「大きくなる=何かに就く」という発想がそこにはあります。もし、そうだとするならば人は就職したら「大きくなる」ことは終わるのでしょうか。それ以降は余生?
大人=大きい人が、さらに大きくなるとはどのようなことでしょう。出世、安泰、裕福、……このように書いているだけで、いかに自分がこれからの自分を考えていなかったのか、発想の貧困さを思い知らされます。子どもの発言は、「日々、一生懸命生きているようにしているけれど、結局どこに向かっているの?」という問いとして、私には残ってしまったのです。皆さんなら、どのように子どもたちに答えますか。
私には、残念ながらまだ答えが見つかりません。というよりも、今ここで早急に答えを出すことは、先の「立派な大人になります!」と同じような浅い答えになってしまうでしょう。
仏教では人の生き方、人生を「道」で例えてきました。古から続く道、無碍(むげ)の一道、白い道などです。どのような道を、どのように歩んでいくのかについての考察となりそうです。さらには、「大きくなったら」を身体的変化ではなく、内面的変化に寄せることもできそうです。そのときは、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう ※)』で言えば、「深く」「広い」智慧(ちえ ※)をいただく、とも考えられるでしょうか。いずれにせよ、子どもとの会話は、時に私を思索の世界へと誘う、大切なご縁なのです。
このように書きながらも、文章をきれいにまとめようとする、小さな自分が見えてくるのです。
- 大無量寿経
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浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。
- 智慧
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知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。
田村 晃徳氏
親鸞仏教センター嘱託研究員
真宗大谷派 専照寺住職(茨城県)
田尻徳風保育園園長
親鸞仏教センターHP
「今との出会い」第227回
法話 2024 11
私の母は大学の頃、演劇をやりたかったらしいんです。でも当時は「天井桟敷(さじき)」や「紅(あか)テント」とかのアングラ演劇が盛んな頃でした。それで母のお父さん、僕のおじいちゃんですが、演劇=過激な反体制のものと思ったみたいで、演劇をやることは駄目だって言ったらしく、それで母は演劇ができなかったんです。
年を取ってから、母は「京都ライトハウス」で、視覚障害者が本に触れ合えるように朗読を録音して、それをお渡しするというボランティアをやっていました。僕は男三兄弟の末っ子で、だから僕が大きくなるにつれて母の子育ての手も空いてくるので、一緒に舞台に連れていってくれたんです。「おやこ劇場」というようなものから「遊◎機械/全自動シアター」、「東京乾電池」、「加藤健一事務所」といった小劇場演劇を一緒に観に行きました。そこで演劇というものに触れました。
高校生のとき、寺の法要で「蓮如上人(※)物語」を新屋英子さんが一人芝居でやってくださいました。兄の知り合いで同志社大学の演劇サークルの方がお手伝いに来てくれて、そこで初めて学生演劇というものを知り、観に行くようになりました。初めて大学の演劇を観にいったとき、100人ぐらいの小さな小屋で、舞台と客席の距離が近く、エネルギーがダイレクトに伝わってくるのが衝撃的でした。
演劇にしろ、ドラマや映画などの映像作品にしろ、おもしろいものをつくろうという一点に向かって大人が必死に一生懸命やっているというのがすごいことだと思いますし、その時間がとても豊かで、そこにこの仕事の魅力を感じています。
舞台は、演者と観客が、同じ時間と空間を共有しているというのがおもしろいなあと思います。それから観客が舞台上のどこでも観ることができる、例えば台詞(せりふ)
を喋(しゃべ)っていない映像では恐らく画面に映っていないであろう役者を観ることができるのも魅力だと思います。自分が観劇するときはついついそういった所を観てしまいます。
- 蓮如(1415~1499)
- 浄土真宗の中興の祖。
本多 力氏
俳優・真宗大谷派 養蓮寺(京都)
真宗会館広報誌『サンガ』186号より
著名人 2024 11