「共命(ぐみょう)の鳥」は、非常に有名な鳥で、仏教の譬(たと)え話によく登場します。インドにおける様々な因縁物語や譬喩(ひゆ)物語などを集めた『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』という経典の中には、次のように説かれています。
昔、雪山(せっせん)の中に鳥あり。名づけて共命とす。一身にして二頭なり。一頭は、常に美しき菓(か)を食(じき)し、身に安穏(あんのん)を得しめんと欲す。一頭は、すなわち嫉妬の心を生じて、この言(ごん)を作(な)さく、「彼は常にいかんが好美(こうみ)の菓を食するや、我は曾(かつ)て得ず」と。すなわち毒の菓を取りて、これを食し、二頭ともに死せしめたり。(『大正新脩大蔵経/たいしょうしんしゅうだいぞうきょう』第四巻・四六四頁上段)
「共命の鳥」は、「一身にして二頭なり」と説かれるように、身は一つですが、頭が二つある鳥です。一頭は、いつもおいしい果実を食べ、その身を健康に保っていました。しかし、もう一頭は、同じようにはいきません。ですから、嫉妬の心を起して次のように言いました。「どうして、彼だけいつもおいしい果実を食べることができるのか。私は、どれだけ求めても食べることができないのに」と。そして、毒の果実を取って食べてしまいました。その結果、二頭とも死んでしまったのです。
「共命の鳥」は想像上の鳥ですが、その一頭が嫉妬の心を起して毒を食べてしまったことは、私たちの生き方そのものを表しています。それは、自分に都合の良いものだけを求め、都合の悪いものは排除するという自分中心の生き方です。例えば、夫婦・家族・友達、広く言えば、国・世界において、私たちは共に関わり合って生きています。しかし、そのことを忘れて、争い、傷つけ合えば、本当の意味で生きているということにはならないのです。これを「自害害彼(じがいがいひ)」、または、「自損損他(じそんそんた)」と言います。自分一人だけで生きることが成り立たないということを、「共命の鳥」は教えているのです。
『雑宝蔵経』
青木 玲氏
九州大谷短期大学准教授
『はじめて学ぶ『阿弥陀経』』(真宗大谷派 九州教務所)より
教え 2024 05