僧侶の法話

言の葉カード

 信國淳(のぶくにあつし ※)先生が、「「浄土」というものは、あってもなくてもよいというような曖昧なものではない。浄土がなくては浄土真宗は成り立たぬ」(『いのちが誰のものか』・樹心社)と語られ、あるいは「「浄土を得て後に初めて我々の人生が、本当に人生らしく光と意味とをもち始める」というのが浄土真宗の立場である」(同書より)と語っておられるように、実は、私たちの人生は、浄土で終わるのではなく浄土から始まるのです。だから、日々の生活の中で、浄土という世界を見出(みいだ)すことによって、はじめて「生まれてきてよかったなあ」と、それこそ「苦労の多い人生であったけれども、尊い、得難い人生を生きることができた」と、喜びと満足の中で自分の人生を完結していくことができるのです。このような人生を、親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉で教えてくださいました。そういうことで、「浄土真宗」という言葉を「浄土こそ真宗である」というふうに、間に言葉を補って学んでいきたいと思っています。

 ちなみに、この「真宗」という言葉の「宗」は、中国の天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が「宗トハ要ナリ」といっていますように、「カナメ」ということなのです。だから、「これがあるから生きていける」「これがなくなったら生きていけない」というような、いのちの中心、支え、拠り所(よりどころ)を「宗」という言葉であらわしているのです。

 私たちが、この世に人間として生まれ、人間として生きる限り、どんなことがあってもこわれない、完全な支え、依り処というものをもたずには生きることができないのです。だから、そのことを意識する意識しないにかかわらず、どんな人も何かを支えにし、何かを依り処にして、現に今、生きているのです。だから人間は、真宗というものをもたずに生きることはできないということが、一番のベースにあるのです。

信國淳
1904~1980。元大谷専修学院院長、大分県來覺寺前住職。

中川 皓三郎氏
帯広大谷短期大学 元学長

『ほんとうに生きるということ』(東本願寺出版)より
法話 2024 03