僧侶の法話

言の葉カード

 『源氏物語』の「宇治十帖(じゅうじょう)」に「薫の君(かおるのきみ)」という人物が登場します。光源氏の息子という設定ですが、そのしぐさにえも言われぬ芳香を帯びていたことからそのように呼ばれるようになりました。
 紫式部の身近にあった香りとはどのようなものだったのでしょう。伽羅(きゃら)か沈香(じんこう)か。時代は移り、親鸞聖人の修行の場に漂っていた香りはいかなるものだったか。仏教の言葉に「薫習(くんじゅう)」というのがあります。香りが物にその香を移していつまでも残るように、自らの行為が心に習慣となって残ることを意味します。日ごろの行いや思いがいつの間にか積み重なって「私」を作っているというのです。
 真宗大谷派の学僧である安田理深先生が「顔は履歴書です」と言われました。日ごろの私の思うこと行うことが、いつの間にか私の「顔」になっているのです。
 茶道の稽古をしていて、この「薫習」を思い知らされることがありました。茶碗を持って茶杓(ちゃしゃく)を持って、さて次にどの所作をすればよいのかを忘れてしまった時に出てきたのは、日ごろ身についてしまっているかなりいい加減な所作でした。
 「いつもは違うのよ、今回はたまたま」とその場をとりつくろったとしても、ふと気を抜いた時に出てくるのはまぎれもなく「日ごろの私」なのです。
 また、このようなことを聞いたことがあります。「歌舞伎役者の家に生まれた子どもは3歳になったあたりから稽古を始めます。せりふを体で覚えるんです。そうするとどんな大舞台でも、たとえあがってしまってもせりふはちゃんと出てくるんです」。
 歌舞伎の世襲という話題の時にたまたま出た話ですが、こうしてせりふを積み重ねている役者さんもいることに驚きました。
 「薫習」ということをこれまで多くの人がいろいろな場所で教えてくれていたにもかかわらず、それほど気にもとめずにきてしまったのだなあ、という後悔が今の私の心境です。
 親鸞の「浄土和讃(じょうどわさん ※)」の中に

  染香人(ぜんこうにん)のその身には
  香気(こうけ)あるがごとくなり
  これをすなわちなづけてぞ
  香光荘厳(こうこうしょうごん)ともうすなる


 と、匂い立つような和讃があります。香に染まる人って、どんな人でしょう。
 先ほどの『源氏物語』の「薫の君」のように、その雰囲気の中にえもいわれぬ香りを醸(かも)し出す人でしょうか。
 「顔は履歴書」。年を取って何ともいえずいい表情を見せてくださる人がいます。それまで経験されたことが深く積み重ねられているような表情。それは世間でいう有名な方とは限りません、身近にいるじいちゃんばあちゃんの中にもいます。
 生きることに悪戦苦闘しながらも現実から足を離さず、そこにしっかりと目を向ける。そのことの積み重ねがやがて顔に、しぐさに、「香」を帯びていくのかもしれません。香りは余韻でもあります。
 出会った後に、深い余韻がほのかに残る。私もかくありたいと思っています。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

小丸 洋子氏
真宗大谷派 正西寺(福島県)

月刊『同朋』2022年8月号
東本願寺出版)より
法話 2024 12