「おそくかえっているあいだに、ぼくをさがしてた」。これは「自分が大事にされた体験」を尋ねたアンケートに答えてくれた一人の子どもの声です。夕闇がせまり心細くなって家に急ぐ中、探している両親に出会ったのでしょう。
「遅くなったね」と声をかけ抱いてもらい、「自分を心配し探して回ってくれる」親の温かさを感じ、大事にされていることを知ったのです。
「名」という字は、夕と口が合わさった文字です。夕闇の中でその姿がはっきりしない中、「ここにいるよ」と声となって名のって存在を知らせることを意味します。「おーい、お母さんよ」「お父さんだよ」と声をかけてくれたように。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は、「名号(みょうごう)」と言われるように、名前となった仏様です。なぜ仏様が名前になったのでしょうか。
「自殺しようとして、できなくて、帰ってきたとき、友だちが泣いてくれたこと」。これは先ほどのアンケートに答えてくれた一人のおとなの言葉です。死ななかったことを何より安堵して、死にたいほどの辛さを一緒に泣いてくれる友だち。悲しみ分かち合ってくれる友の存在が、私たちが生きる支えです。
私たち人の世は力ずくの世界だと仏様は言われます。力には力で対抗しようと争い、争いは怒りをよび、恨みになって互いが滅ぶまで争います。
その争いを繰り返す人間の歴史を悲しみ、その愚かさに目を覚まして一緒に課題としようと願った仏様が、闇の中で自分たちを見失う私たちに、呼びかける名前となったのです。名前に呼ばれて目を覚ました人は、その願いを支えに、その名前「南無阿弥陀仏」を声に出して、歩む人になるのです。
四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
仏教語 2024 12