「悲しみ」の一つの姿に「泣く」ということがありますが、「泣く」ということについては、いつも二つのことを思い起こします。一つは、大学生の頃に父が末期癌になり、それを本人から聞いたものの、なかなか受け止められず、毎日毎日泣いていたこと。もう一つは、長男を出産した翌日、理由を把握する間もなくぽろぽろと涙が出ては止まらず、急激な落ち込みを感じたことです。喜びの涙とは違っていました。「生と死」という人間の根源的な問題に関わる場面で、私は全身で泣いていました。父が癌だと知った当時は、ベストセラーにもなっていた五木寛之さんの本をよく読んでいました。バブルがはじけ、暗さを増していく世の中にあって、やみくもに明るくしようとするのではなく、暗闇を感じる大切さ、「泣く」ことのススメのようなことを五木さんは繰り返し書いておられました。その言葉は止まらない涙を支えてくれました。長男を産んだ時は、不安が大きかったのでしょう。目の前の新しい命はただただ輝かしいのに、先の事を思うと不安がどんどん襲って来て、仕方なかったのだと思います。
「泣く」と、涙が出ます。涙は上から下に落ちる。喜びはどちらかというと下から上のイメージがあります。涙は私の内側から下にこぼれ落ち、地面に流れ、私の歩いていく大地にしっかり潤いを与え、豊かにしていく。「前向きに頑張れ!」とガッツな言葉だけが自分の行く末を支えていくのではありません。私自身、「生と死」に通底している「悲しみ」への出会いが、自身の人生を歩む大きな支えとなっています。
「悲しみ」が贈り物になる。そして下に流れ出る涙が多ければ多いほど、自分の歩く大地が潤うのだとしたら、悲しみをぎゅっと抱擁できるような気がします。
長野 文氏
真宗大谷派 正法寺坊守(長崎県)
真宗会館広報誌『サンガ』175号より
法話 2023 09