仏教は、人のいのちを「生死(しょうじ)」という言葉で受け止めます。普通は、「生」だけがいのちだと思われていますね。しかし、その「生」には必ず終わり、つまり「死」があるのです。人に「死」が訪れる条件は、老化・病気・事故などですが、根本原因は、誕生、つまり「生」以外にないのです。ですから、病気や事故に遭わなくても、人には必ず「死」があります。私たちは、オギャーと言って誕生しますが、実はこの時、「生」のみが誕生するのではありません。「生と死」が同時に誕生するのです。いのちを平等に見れば、「生死」こそ、いのちを正しく見た言葉だと言わなければなりません。
譬(たと)えれば、いのちは紙の裏表のような関係です。表には「生」が、裏には「死」が張り付いて1枚の紙のように成り立っているのです。ですから、「死」を遠ざけ、削り取ってしまおうとすれば、「生」も削り取ることになるのです。しかし、このいのちの厳粛な事実に目を背けず、ここに立ち止まるとき、初めて「必ず死ぬのに、なぜ生きねばならないのか」という問いが与えられます。この問いは、決して特殊な問いではなく、人類の誰もが突き当たる普遍的な問いです。
さて、この問いに目覚めてしまったなら、もう後に引き返すことはできません。この問いに対して、人類が取り得る態度は二つしかありません。一つは、「そんなことを考えても無意味だ」と、その問いに対して背を向けるか。あるいは、その問いに促されて、生きる意味を問おうと志すかです。仏教は、この問いに対して、誠実に応答してきた知の集積です。ただ、この問いに対する答えは、インスタントに手に入れることができません。また人から与えられるものでもありません。どこまでも、自分が求めて得たものでなければ、たとえ、それがどんな権威者からの答えだとしても自分自身の答えにはなりません。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 09