なにげない言葉一つで 真黒に染まったり
なにげない言葉一つで ほんのり桃色にみえたり
なにげない言葉一つで 世の中が真暗になってみえたり
なにげない言葉一つで 世の中がにじ色になってみえたり
単純な私です バカがつくほど単純な私…
きっと私も 人を なにげない言葉一つで
真暗に染めることだって…
だから私 なにげない言葉一つ 許せる 私になりたい
昔、みた中学生か高校生の人の詩です。
私も日々、さまざまな言葉一つに、一喜一憂して落ち込んだり、自己満足したりの生活です。許せないことばかりです。「許せる私になりたい」とは、難しいことですね。でもここに、言葉と向き合う、苦悩と叫びがあります。
その言葉を受け取る私の心の正体は何かと言えば、自分の都合に合うか、合わないか、です。仏教では「六道」と言われますが、一喜一憂しながら、日々、この六道をめぐっているのが私の姿です。全部、自分の都合に合うか合わないかが作り出す世界ともいえましょう。そんな私の姿に出会うのも言葉。言葉との出会いを通して、それまでの私の姿・あり方に気づいた新たな私が生まれていくのです。
ただ、その気づきも、その瞬間のことです。いくら気づいた私があっても、日常生活の中で、また自分に正義を立てて生きていくことになっていきます。それが、仏の眼で「凡夫(ぼんぶ)」といわれる私たちの姿です。根底から、その思いは抜けきれないのです。
しかし、一度、言葉との出会いによって気づきがあることは、またその言葉にふれることを通して、自分に気づける道が開かれていくことにもなります。
気づいたこと、生まれたということで終わるのではなく、生まれ続けるのでしょう。繰返し繰返し生まれ続けるのでしょう。そのために言葉との出会いが大切なのです。
二階堂 行壽氏
真宗大谷派 專福寺住職(東京都新宿区)
首都圏慶讃法要特設サイト記念法話より
法話 2023 11