暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 もともと「通夜」は仏教語で、「夜を通して祈願し、勤行(ごんぎょう)すること」でしたが、やがて「死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の傍(そば)で終夜守っていること」にも用いられるようになりました。お通夜とは、亡くなられた方と、縁のあった方が集い、夜を通して語り合う習わしです。語り合うことで、自分は故人とどのように付き合ってきたかが改めて問われます。私の知っている故人とは、故人のほんの一面であり、本当の故人とは出会えていなかったのかも知れません。さらに、自分もやがて「故人」となるのだと、故人から教えられます。「通夜」とは、故人を通して、己自身のいのちと出会う大切な空間なのです。

 これは私の経験したことです。あるお通夜で、夫を亡くしたお連れ合いがメソメソと涙を流しておられたのです。ところが、そのお母さんの姿を見て、娘さんが、こう言ったのです。
 「お母さんが泣いているのは、お父さんのためじゃない。お母さんは、ただお父さんがいなくなって寂しくて泣いているだけなのよ。自分が悲しいだけなのよ」と言ったのです。私はこの言葉を聞いて、ドキッとしました。
 確かに、愛するものとの別れは悲しいに違いないのです。でも何が悲しいのかと言えば、それは「自分が悲しい」のです。大切にしていた人を奪われ、悲しい悲しいと言っている「自分が悲しい」のです。人は故人のために涙を流しているように見えて、本当はそうではないと教えられました。人間とは、自分自身に対してのみに涙を流す生き物であり、他者のために泣くことのできない悲しい生き物だと教えられました。

 さらに「お通夜」とは、自分もやがて「故人」となるのだと教えられる場所です。真宗では、「故人」を「仏様」として頂きます。それは人間の煩悩を投影して、「死」を「暗く、冷たく、寂しい」ものとは見ないということです。もしその目で「故人」を見れば、「故人」は「可哀想な人」と見えてしまいます。それは間違いです。「故人」とは、私よりも、ほんの少し先を歩かれた方であり、人間という苦しみを超えられた「仏様」です。ですから、私たちは「故人」を可哀想な人に貶めるのではなく、私を教え導いて下さる「仏様」として仰いでいくのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 05