お彼岸ともなると、寺の境内の墓地は花がいっぱいにあふれる。別々に暮らしている兄弟姉妹や子どもたちも、彼岸の墓参りは欠かさない。子どもや孫たちに手をひかれて、ようやくの思いで墓参りをすませられるお年寄りの姿や、元気のいい子どもたちの声が聞こえる。
お寺やお墓にお参りするとき、今は生と死とに別れてしまった親しい人との距離がぐっと近づいてくるのかもしれない。生死(しょうじ)するいのちの交感。ことに思いがけなく大切な人に先だたれてみれば、なおのことである。
本堂にお参りをし、「彼岸になっても、いつまでも暑いですね」と、お茶を飲みながらのたわいもない会話の中で、ふと通夜や葬儀のことが思い出される―。
私たちがこの身に受けているいのちというのは、死を生の終わり、死と敵対するものとして勝手に思い描いている生ではない。生死するいのちをこそ生きているのだ。死は生の彼方(かなた)にあるのではなく、生とひとつにあるのだ。だからこそ、生死するいのちが互いに響き合うのであろう。いまはもう浄土に還られたが、かつて師は「お念仏の中で再会しましょう」と私たちに言葉を残された。再びあいまみえる世界があるのである。
花園 彰氏
真宗大谷派 圓照寺住職(東京都)
小冊子『お彼岸(2006秋)』(東本願寺出版)より
法話 2023 03