「孝養(きょうよう)」には、「親に孝行をつくすこと、亡き親のためねんごろに後世を弔うこと」などの意味があります。川柳でも、かつては「親孝行、したいときには、親はなし」でしたが、現代では、「親孝行、したくないのに、親がおり」と言うほどに、老親の介護問題が深刻です。親を大事に思う前提には、子どもが、自分自身の〈いま〉をどう受け取っているかが関係します。〈いま〉が良ければ、〈いま〉親への恩も感じましょう。〈いま〉が悪ければ、そんな気持ちは起こりません。ただ、親への恩を、「損得勘定」で推し量ってしか感じられない私の浅ましさを教えられます。
思えば親鸞も、その浅ましさに気付いたひとではないでしょうか。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」(『歎異抄(たんにしょう)』第五条)と告白しています。亡き両親の供養のために、自分は一返も念仏を称(とな)えたことがないと言うのです。それは、自分を親不孝者だと言って居直っているわけではないでしょう。
念仏を、「損得勘定」で利用し、親を供養するための道具に貶めていることへの懺悔(さんげ)ではないでしょうか。念仏は、阿弥陀(あみだ)さんが、苦悩する人々を救うための道具であるのに、それを自分の「損得勘定」を満足させるための道具にしようとする、この浅ましさを「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻)と告白されています。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 03