2023年弥生(3月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 お寺のお彼岸の法要の準備を始める頃、祖母の命日を迎える。私が小学校に上がる前に亡くなったが、今でも祖母のことを思い出す。ひらがなは、祖母が繰り返し読んでくれた絵本で覚えたらしい。「またこれか」と言いながら、何回も何回も読んでくれていたそうだ。
 合掌、正座、念珠。法座に参る時の姿勢を教えてくれたのも祖母だった。強制することはなかったが、祖母の姿を見てなんとなく覚えたのだと思う。

 何よりの学びは、祖母という老人の存在を知ったことだった。私よりずっと前からここにいて、髪は白く、足の運びも遅く、顔や手足に深いシワが刻まれている。日当りのよい縁側で、シワだらけの手と私のもみじの手が遊ぶ。祖母はシワだらけの手をつまんで見せてくれた。痛みもないらしく、つまんだ皮膚はゆっくり戻っていった。
 「おばあちゃんの手は紀ちゃんの手と違って、こんなんなるで~」。
 祖母は笑いながら見せてくれた。私も引っぱった。面白かった。早く祖母の手になりたいと思った。もみじの手は痛い。
優しい思い出とともに、祖母は亡くなった。私もこうなるのだ。年老いて動きは鈍くなって、見た目も別の生き物のようになるのだ。そして、死んでいくのだというメッセージを残して。
 祖母の命日に必ず読む「御文(おふみ)」がある。 それ、倩(つらつら)人間のあだなる体(てい)を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。(『御文』三帖目四通)  蓮如上人(れんにょ ※)の一言一言に耳が痛い。わかっていることだけれども、祖母にもきちんと教えてもらっていることだけれども、何とかして、老人になりたくない。自室の化粧品、サプリメント、健康グッズの山が物語る。しかし、どんな抵抗をしても、生きていればいずれ私にもその日は来るのだ。 弥陀如来(みだにょらい)の本願(※)にあいたてまつらずは、いたずらごとなり。(同)  私はまだ出遇(あ)えない。祖母を思い出しながらお彼岸の法要を勤める。如来の本願を聞く。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶
本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

『御文』(蓮如)

長 紀子氏
真宗大谷派 願念寺(滋賀県)
小冊子『お彼岸(2018秋)』(東本願寺出版)より
教え 2023 03

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「孝養(きょうよう)」には、「親に孝行をつくすこと、亡き親のためねんごろに後世を弔うこと」などの意味があります。川柳でも、かつては「親孝行、したいときには、親はなし」でしたが、現代では、「親孝行、したくないのに、親がおり」と言うほどに、老親の介護問題が深刻です。親を大事に思う前提には、子どもが、自分自身の〈いま〉をどう受け取っているかが関係します。〈いま〉が良ければ、〈いま〉親への恩も感じましょう。〈いま〉が悪ければ、そんな気持ちは起こりません。ただ、親への恩を、「損得勘定」で推し量ってしか感じられない私の浅ましさを教えられます。

 思えば親鸞も、その浅ましさに気付いたひとではないでしょうか。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」(『歎異抄(たんにしょう)』第五条)と告白しています。亡き両親の供養のために、自分は一返も念仏を称(とな)えたことがないと言うのです。それは、自分を親不孝者だと言って居直っているわけではないでしょう。
 念仏を、「損得勘定」で利用し、親を供養するための道具に貶めていることへの懺悔(さんげ)ではないでしょうか。念仏は、阿弥陀(あみだ)さんが、苦悩する人々を救うための道具であるのに、それを自分の「損得勘定」を満足させるための道具にしようとする、この浅ましさを「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻)と告白されています。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 03

僧侶の法話

言の葉カード

 お彼岸ともなると、寺の境内の墓地は花がいっぱいにあふれる。別々に暮らしている兄弟姉妹や子どもたちも、彼岸の墓参りは欠かさない。子どもや孫たちに手をひかれて、ようやくの思いで墓参りをすませられるお年寄りの姿や、元気のいい子どもたちの声が聞こえる。
 お寺やお墓にお参りするとき、今は生と死とに別れてしまった親しい人との距離がぐっと近づいてくるのかもしれない。生死(しょうじ)するいのちの交感。ことに思いがけなく大切な人に先だたれてみれば、なおのことである。
 本堂にお参りをし、「彼岸になっても、いつまでも暑いですね」と、お茶を飲みながらのたわいもない会話の中で、ふと通夜や葬儀のことが思い出される

 私たちがこの身に受けているいのちというのは、死を生の終わり、死と敵対するものとして勝手に思い描いている生ではない。生死するいのちをこそ生きているのだ。死は生の彼方(かなた)にあるのではなく、生とひとつにあるのだ。だからこそ、生死するいのちが互いに響き合うのであろう。いまはもう浄土に還られたが、かつて師は「お念仏の中で再会しましょう」と私たちに言葉を残された。再びあいまみえる世界があるのである。

花園 彰氏
真宗大谷派 圓照寺住職(東京都)

小冊子『お彼岸(2006秋)』(東本願寺出版)より
法話 2023 03

著名人の言葉

言の葉カード

 本の魅力って、変な言い方ですけど、「孤独を得られるもの」だと思っています。たとえば、映画は誰かと一緒に観ることがあっても、本は読み聞かせを除けば一人で読みますよね。必然的に“孤独”にならないといけない。でも、一人でいるからこそ、存分に考えることができるんです。孤独は、豊かな時間だと思います。
 読書から得る孤独はマイナスではなく、むしろ必要な時間だと思っています。今はSNSが発達していて、孤独になる時間が少ないですよね。いつもゆるく誰かとつながっていて、誰が何をしているかがリアルタイムでわかる。つながっていることへの安心感がある一方で、一人でいることの怖さや孤独を解消したいんじゃないかと思うんです。
 読書の楽しさは、人とつながる楽しさとは違います。自分と向き合ったり、考えたりすることで充実するんです。考えている時は一人だけど、その時間は誰かといる時にすごく活かされます。だから、その孤独を恐れてはいけないと思います。

 本を探す時って、モヤモヤした問題や悩みに対する答えを求めていることが多いと思うんです。つまり読書というのは本を読もうと思ったところから始まっていて、読み終えてもその時間はずっと自分の中のどこかで流れている。あの本に書いてあったのは、この気持ちなんだな、って合致する瞬間が後から訪れるのも本の良さです。映像とは違って、シンプルに文字だけだからこそ、心にしっかりと残っているんですよね。

中江 有里氏
女優・作家

月刊『同朋』2019年6月号(東本願寺出版)より
著名人 2023 03