酷い目に遭(あ)うと、ひとは、「そんな殺生な」などと言いますね。でも「殺生」はもともと仏教語です。読んで字の如く「生き物を殺すこと」で、仏教ではこれを罪とし、戒律では第一番目に禁じられます。しかし、「生き物を殺す」ことは、「食べる」ことにつながっています。私たちが食べる動物性タンパク質は、「生き物」のいのちです。鶏肉や豚肉は、「食べ物」ではなくて「生き物」です。「生き物」を殺して、「食べ物」としてきたのが人類です。それを「当たり前」と感じるか、「罪」として感じるか。それを「生き物」は人間に向かって突き付けているのです。
詩人・金子みすゞの「大漁」という有名な詩があります。
「朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの 大漁だ。 はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう。」ここには目線の逆転が起こっています。人間から見たイワシではなく、イワシの目から見た人間です。人間はイワシの大漁で大喜びをしているけれども、海のなかでは、何万のイワシの葬式を挙げているだろうと、ゾッとするほどの罪に晒(さら)されます。
さらに、これは金子みすゞだけの話ではなく、これを読んでいる自分自身にまで及んできます。私は、この詩を読んで、言い訳をしている自分を発見しました。肉はタンパク質だから人体には必要なものなのだ、悪いと思っても食べなければ生きてはいけないと。また、人類には、もともと動物性タンパク質を消化吸収する臓器が具わっているのだから、何万年もの間、人類は肉食文化と共に生きてきたのだと。しかし、どれだけ言い訳をしても、言い訳をしている自分からは逃れることができません。
昔のお寺では、毎月28日を「精進日」として、動物性タンパク質を食べない日がありました。その日は、魚や肉は食べず、野菜だけを食べました。月に一日ですが、「精進日」だけは、罪を作らないのですから気持ちがすがすがしくなります。
それで気付いたのです。罪を作って重い気持ちになるのも、罪を作らずに軽い気持ちになるのも、両方とも自分のこころが自分自身を裁いているだけだと。いわば自分で自分を浮かばせたり沈めたりしているだけで、そこには阿弥陀(あみだ)さんはいませんでした。阿弥陀さんは、そんな人間を否定せず、また肯定もしません。ただ悲愛をもって見つめられるのでしょう。この悲愛からの視線を、一生涯受け続けていくのが真宗門徒なのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 06