2023年如月(2月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「話、聞いてる?」「うん、ちゃんと聞いてるよ」。このような会話をした経験は多くの方にありそうです。「ちゃんと」「きちんと」聞くこと、つまり正しく聞くことの重要性は誰もが知っています。しかし、私達はきちんと聞いているのではなく、自分の都合のいいように聞いていることがあります。場合によっては「何が」言われているのかではなく、「誰が」言っているのかで真偽の判断をすることもあるでしょう。

 仏教ではそのような「聞き方」に警鐘を鳴らします。「今日より法に依(よ)りて人に依らざるべし」という言葉があります。「その人の説く、教えの内容を信じるのであり、その人の人格を信じるのではない」という意味です。私達はその方の説かれている事が真実かどうかを聞くのではなく、「その方が語っているから真実だ」という本末転倒の聞き方をすることが多いのではないでしょうか。しかし、相手が何に根拠を置いて語っているのか、そしてそれは真実かどうかを考えることが、話を聞くということなのだと思います。
 仏教もそうです。教えを聞いて終わりにするのではなく、聞いてよく考えること、つまり思うことが仏教の学びなのです。教えを聞くことを「法を聞く」と書いて「聞法(もんぽう)」と言います。そして教えを考えることを「聞いて思う」と書いて「聞思(もんし)」と呼びます。これらの言葉が私達の聞き方の問題点と同時に、聞くべき方向性を教えてくれていると思うのです。

 これらをふまえて、もう一度冒頭の会話に戻ってみましょう。
「話、聞いてる?」「うん、自分なりにちゃんと聞いてるし、そのようにあなたが話す背景を考えていて・・・」「もう、いい」。いずれにせよ、ちゃんと聞くのは難しいようです。

『大智度論』(龍樹/りゅうじゅ)

田村 晃徳氏
真宗大谷派 專照寺住職(茨城県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2023 02

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「過去」は、「時の流れを三区分した一つで、既に過ぎ去った時。現在より前」のことですが、もともとは仏教語の「過去世」の略称です。仏教では「時間」を「三世」とし、「過去世・現在世・未来世」と区分します。これは人間が「時間」をどのように感じているかを表しています。しかし、「時間」を突き詰めてみれば、人間は、「現在」しか生きていません。「過去」のことを思っているのも〈いま〉ですし、「未来」のことを考えているのも〈いま〉です。藤代聰麿(としまろ)さん(※)は「これからが、これまでを決める」と言われました。これは、どれほど悲惨に思える「過去」であっても、それはこれからの受け止め方次第で、不幸にも幸せにも変化することを教えています。

 「過去」の事実は変えることができませんが、それをどのように受け止めるかという「受け止めの自由」は、「現在」に残されているのです。つまり、自分自身の「現在」をどのように受け止めるかによって、「過去」は変化していきます。もし「現在」が満足のいくものであれば、「過去」の様々な問題も、そのような困難があったからこそ「現在」の幸せに結びついたのだと受け取れます。しかし、逆に「現在」が不満足であれば、「過去」は、「あれさえなければ、こんなことにはならなかったのに」と愚癡(ぐち)の種になります。要するに私たちにとっての「幸・不幸」は、「現在」をどのように受け止めるかに懸かっているのです。

 しかし、そうは言っても、私たちは「過去」を愚癡の種にし、「未来」に不安を抱えて生きているのが実情ではないでしょうか。そんな私を阿弥陀(あみだ)さんは、「過去」を愚癡の種にするのも、「未来」を不安に感じるのも、すべては「比べる煩悩」に惑わされているのだよと教えてくれます。そして人間を「幸・不幸」という幻想から解放して下さるのです。

藤代聰麿(1911~1993)
真宗大谷派僧侶

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 02

僧侶の法話

言の葉カード

 昨年、地域で行われる健康診断を受けました。少しショックだったことは生まれて初めて身長が低くなった、いや、縮んだことです。なるべく高くと思って背筋を伸ばすのですが、その気持ちを見透かすかのように上からぎゅっと押さえられてしまいました。わずか数ミリのことではありますが、その数ミリの身の丈にこだわっていくのです。「身体」は正直に年齢を重ねていくのですが、「思い」が受け入れられないのです。

 私は、故郷のお寺に帰ってもう30年近くなりますが、それぞれに厳しいしのぎの中で生活しておられる方々との交わりの中で、うなずかされることがあります。それは、教えが至り届くということは「頭で」わかる、わからない、ということよりも、「身に」、間に合うか合わぬか、ということであります。
 言葉にしても、身に響いていくということがある。言葉には体温というものがあって、体温をもつ言葉は必ず相手に響いていくのだとお聞きしたことがあります。温もりをもつ言葉には命の息吹きがあって、いつしか頑なになってしまった心に、時を越え、ところを越えて届いていく。「念仏を申せ」との親鸞聖人のお言葉は、今もなお、人生の歩みに立ちすくむ現代人に方向をあたえて下さる。生きとし生きる全ての人々の心の底を通じ、耳の底にとどまっていく。闇を抱きながら歩む方の、胸の奥深いところにある願いをよびさまし、その方を揺り動かしていくのです。

 親鸞聖人のご命日の法要である報恩講(ほうおんこう ※)が、あるお寺でつとめられたおり、仏教のお話をしに伺いました。そのとき私の部屋を訪ね、ご自身の胸に手を当てられ「ここを揺さぶって頂きませんとね」と言われた方の言葉が忘れられません。
 風にふれれば草が動くように、仏法(ぶっぽう)にふれれば人は動くのであります。「耳に心地よい言葉」を聞く者から、「真実の言葉」を聞く者へと方向が変わるのであります。
 「私は私に生まれさせて頂いて本当によかった」と、腹の底からいえるような人生を歩もうと、現代に生きる私たちは、親鸞聖人の教えのもとに、歩み始めるのであります。

報恩講
浄土真宗で大切にしている仏教行事。親鸞の祥月命日にあたる法要。

安本 浩樹氏
真宗大谷派 專光寺住職(広島県)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2023 02

著名人の言葉

言の葉カード

 現代は、ITのようなデジタル技術が全盛の時代ですね。さらにこれからAI(人工知能)が進化していけば、人間の心が機械で読めるようになるかもしれない。でも、そんな時代だからこそ、実はアナログが大事なんだと思うんですね。コンピュータがすべてを解決するような時代にあって、自分が生きる意味は何なのか、世の流行に振り回されているような自分の存在とは何なのか。親鸞さんを鏡にして自分の姿を見てみることで、いろんなものが見えてくるんじゃないかと思うんですよ。

 浄土真宗の教えは、答えを簡単に出してくれないから、難しいと思われがちです。親鸞さんは人間の全人格を相手にしているから、簡単に答えは出ない。むしろ、答えを得ることより、その答えを手探りで探っていく過程・問いにこそ大事な意味があるわけです。メーテルリンクの『青い鳥』のように、幸せは探しても見つからないけれど、実は自分の足元にある。あなたが今、そこにいることが実は幸せなんだという気づきを親鸞さんは与えてくれるのです。だから、答えはひとつじゃなくていい。10人が教えの本を読めば、10人の親鸞さんがいてもいいかなと思いますね。

向谷 匡史氏
作家・浄土真宗本願寺派僧侶

月刊『同朋』2019年9月号(東本願寺出版)より
著名人 2023 02