2023年卯月(4月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「他力」は、だれのどんな「力」なのかという問いに宗祖(親鸞)は「他力というは如来の本願力なり」と明確にしてくださっている。それは「他力」の誤用を見越してのことにも思える。
 阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力を「他力」といい、その「他力をたのむ」という。
 「他力に頼む」ところに誤用がある。都合のいいご利益を要求してアテにし、アテがはずれて疑う。
 「たのむ」は「憑(たの)む」だと教えられる。それは依頼ではない。「まかせる」ことだ。信じていなければまかせることなどできない。
 「頼む」は「疑」を、「憑む」は「信」を孕(はら)んでいる。
 自分の足で立っていると思っている私が、立っていられるように支えているすべてのはたらき。自分の意志で手を合わせたと思っている私の、手が合わさるように設えているはたらき。「憑む」というのは、そういう「支え」や「設え」をまかせることだとすれば、それは「疑いようがない」ということだ。
 「他力」とは「疑いようがないこと」をいうのだと思う。

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(親鸞)

米澤 典之氏
真宗大谷派 常照寺住職(三重県)
『今日のことば(2011年)』(東本願寺出版)より
教え 2023 04

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 任侠(にんきょう)映画などで、「娑婆(しゃば)のメシは美味いなぁ」などと聞くことがあります。「娑婆」は、もともと古代インド語の「サハー」という発音を「娑婆」と漢字に当てたものです。「サハー」には「忍ぶ」という意味があり、「忍耐する場所」を表します。誕生はおめでたいことですが、それは「死ぬいのち」を頂くことですから、必ずしもめでたいことではありません。忍耐するための意味が明らかにならなければ、苦しみに耐えることはできません。仏教は、人間のいのちの真実に目をつぶらず、苦悩に耐える意味を見いだす道なのです。

 この世に生まれたいと思って生まれたひとは、誰一人としていません。気がつけば人間として生を受けていたのです。男に生まれたいとか、女に生まれたいとか、どの民族に生まれたいとか、どの時代に生まれたいとか、誰を父とし、誰を母とするか。これらのすべては自分が決められないことです。いわば、私たちは、この世へ「誕生した」のではなく、「誕生させられた」というのが本当のことでしょう。そして誕生してみれば、四苦八苦の苦しみに遭(あ)わなければなりません。

 四苦八苦とは、①生、②老、③病、④死、⑤愛別離苦(あいべつりく)、⑥怨憎会苦(おんぞうえく)、⑦求不得苦(ぐふとっく)、⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。生老病死(しょうろうびょうし)は分かりやすいですね。愛別離苦は、愛し合っている者同士が別れなければならない苦しみ。怨憎会苦とは、憎しみ合うものと出会わなければならない苦しみ。求不得苦とは、欲しいものが手に入らない苦しみ。五蘊盛苦とは、それら全体をまとめた苦しみです。

 そんな私たちに向かって阿弥陀(あみだ)さんは、「群生を荷負(かふ)してこれを重担(じゅうたん)とす」(『仏説無量寿経』)とおっしゃいます。「群生」とは「群れ生きるもの」、つまり、私のことです。この私を重荷として背負い、片時も忘れることがないと。阿弥陀さんの救いとは、苦しみの原因を除去することではありません。むしろ、苦しむものと一体になり、その苦しみを内側から支えるのです。この世は四苦八苦の娑婆ですから、これを否定することはできません。ただ、私が苦しみを感じるとき、それは阿弥陀さんがあなたを支えて下さっている苦しみであることは間違いありません。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 04

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは日常の中で「信じる」という言葉を使うことがあります。宗教的な言葉で言えば「信心」といいます。よく「あの人は信心深い」とお聞きしますが、どういうことかをお聞きすると「よくお寺や神社にお参りされるから」ということだそうです。どこにでも手を合わせることが信じるということだと思っておられるようです。
 親鸞聖人は人間にはまことの心はない、と言われます。そのような人間に、「真実の信心」が起こるはずはない。非常に厳しいお言葉です。

 教えを聞き初めた頃、「そんなことはない、根拠はないけれど、ちゃんと人を信じる心が私にもあるはず」と思っていました。そのことをある先生が、「本当に? 本当にあるんでしょうかね」と問うてくださいました。「人間の心はそんなに確かですかね」と。
 私の心は確かなのかと問われた時、否定しながらもふと、とても確かではない私の姿が浮かびあがりました。日頃の生活の中でも人を信じることはとても大切なことだと思ってはいますが、実は何かあると不安になり信じられなくなることがあります。そんな私にどれほどの“真実”があるのかと考えた時、ハッとしました。
 「教えを信じています」と言いながらも、ただすがりたいだけではないのか。信じるという言葉で自分の疑いをごまかし、迷っていることを認めずに、何を中心としているかもあいまいにしている私は、どこを取っても確かではありませんでした。

 確かだと思っていたことがゆらぎ崩れていく。そんなことを思っていると先生のお言葉が続きました。「人間にはそんなものはないんです。だから念仏をするんです」。そのときは仰っていただいたことがわかりませんでした。けれど、わからないからこそ私はその問いを持って教えを聞き、親鸞聖人のお姿の像、ご真影(しんねい)の前に座らせていただくのです。

犬飼 祐三子氏
真宗大谷派 正林寺坊守(愛知県)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2023 04

著名人の言葉

言の葉カード

 私がスペインでの生活の中で感じたのは、誰一人取りこぼさない社会。困っていると、たとえ通りすがりでも、「お前大丈夫か」と手を差し伸べてくれましたから。
 でも私はそれをなかなか受け取れませんでした。「人さまに迷惑をかけてはいけない」と言われて育ってきた世代ですし、受験にITバブルと、競争の中で生きてきたので、誰かに助けてもらうとか、自分の弱さを見せることなんてできなかった。
 そんな私が差し伸べてくれる手を握り返せるようになったのは、私自身が弱い存在になったからです。スペインで言葉がしゃべれない移民という弱者としてのスタートから、孤独な子育てまで、手助けなしでは続けられませんでした

 社会で生き延びるためには自分の弱さを見せちゃいけないような風潮がありますが、これからの「答え」のない社会では、誰もが主役になれるチームであることが大切。それには、チーム内での信頼と対話が欠かせません。「助けて」と言えることが、物事のスタートなんです。だから、ひとりでがんばらず、自分の弱さも相手の弱さもまるごと認めて、自分自身を含めた誰をも見捨てない。そして「お互いさま」と自ら手を差し伸ばし、また差し伸べてくれる手をちゃんと握る勇気をもつ。そんな柔らかで強い個人の連帯が、これからの社会を、未来を切り拓くと思っています。

湯川 カナ氏
一般社団法人「リベルタ学舎」代表理事

月刊『同朋』2019年7月号(東本願寺出版)より
著名人 2023 04