2022年長月(9月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 人は必ず死ぬものだと頭では知っていても、よもや自分の身の上に今日や明日にも起こるとは思えない。大切な人の死別による深い悲しみや無力感に襲われるとき、人は身につまされて死を身近に感じるのではないだろうか。「生死無常(しょうじむじょう)」と教えられ、「無有代者(むうたいしゃ/たれも代わる者なし)」と教えられるいのちの事実を、私たちに先だって亡くなっていかれた方は、それこそ身をもって教えてくださっているに違いない。そのことを受けとめることこそ、残された私たちの仕事だと思う。

『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』

『仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

花園 彰氏
真宗大谷派 圓照寺住職(東京都)
真宗会館広報誌『サンガ』159号より
教え 2022 09

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「懺悔」は「さんげ」と読み、もともと仏教語で、「罪過を悔いてゆるしを請うこと」です。しかし明治期に「懺悔」を「ざんげ」と読ませ、「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを神の前に悔い改め告白すること」と理解されるようになったようです。してはならないことをし、思ってはならないことを思い、その過ちを神仏の前に告白することが懺悔でしょう。しかし親鸞は自分を、一つも懺悔することのできない存在だと歎きます。罪の告白は尊いことですが、罪を告白している自分に酔い、自己慰撫(じこいぶ)している自分が見えてしまったからです。

 親鸞の洞察は鋭いです。罪の告白をすることで、自分の罪を軽くしようとする煩悩(ぼんのう)を発見してしまい、「無慚無愧(むざんむき)のこの身にて まことのこころはなけれども」(「正像末和讃」)と告白します。これは自分で自分の罪を反省し、懺悔しているのではありません。世間では「反省」することが良いことのように言われますが、親鸞は、それこそ傲慢(ごうまん)なこころだと考えています。反省は、罪を犯した自分を罰し、罪のないものになろうとする思い上がりだからです。親鸞は、罪と一体したのです。それで「無慚無愧のこの身」と告白できたのです。

 「無慚無愧」とは、自分には懺悔など絶対にできないのだと、阿弥陀(あみだ)さんから教えられた告白です。そう教えてくれたのが阿弥陀さんの悲愛ですから、そこで阿弥陀さんと出遇(あ)ったのです。懺悔ができないということを、阿弥陀さんに向かって懺悔しているのです。実は、この懺悔こそが、阿弥陀さんへの讃嘆なのです。懺悔が出来ないということを、徹底的に教え続けてくれるのが阿弥陀さんですから、阿弥陀さんの教育なしに懺悔は生まれません。それで懺悔は、常に讃嘆と一体なのです。もし一体でなければ、「無慚無愧」は、単なる絶望感に終わるでしょう。一体になっているからこそ、「無慚無愧」が救いの温もりを放ってくるのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 09

僧侶の法話

言の葉カード

 以前「サビは鉄より出(い)でて鉄をくさらす。グチは人より出でて人をくさらす」という言葉を目にしました。日々のできごとを悔やむ愚痴(ぐち)は、その人の生活を暗くしていきます。もし、冒頭の言葉が「これまでがこれからを決める」だったら、その人生観では、辛いことやイヤなできごとが起こるたびに「どうせこんなもんや」と居直ったり、「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と不安を膨らませたりして行き詰まっていくのではないでしょうか。

 藤代先生(※)は「命終わる時に仏になる―これが今現在の言葉でなければなりません」とも言われました。この言葉を私なりに受け止めると、仏さまの教えを頼りにして今を生きることで、私たちのモノの見方が転じ、未来が開かれ過去が見直されてくる。先生は、それを冒頭の言葉で表現されたのだと思います。仏さまの教えは、愚痴ばかりの私たちの姿を照らし出す光として、様々な言葉や表現となって私たちにまで届けられているのです。

藤代聰麿(1911~1993)
真宗大谷派僧侶

津垣 慶哉氏

真宗大谷派 正應寺住職(福岡県)

真宗会館広報誌『サンガ』163号より
法話 2022 09

著名人の言葉

言の葉カード

 不登校は、不登校になっている個人の問題ではなく、不登校を作ってしまう社会の不自然さ、そして社会に生きる中で不登校になった時に、大丈夫だよと言えずに、その人を責めているという社会の問題だと思います。
 私が学校に行かなくなって気づいたことの一つは、将来のために生きるのではなくて、今を生きたいと思ったことです。
 学校の中で変な校則に縛られて、必要かどうか分からない勉強をして、そして人間関係がぎすぎすして、いじめる、いじめられる中で、これが将来のためと言われても全然価値を見いだせませんでした。ですが、不登校になって学校に行かない子たちの集まりの場に行ったとき、そこには今を一生懸命に生きている仲間の姿がありました。スタッフの大人たちもその子の今を支えるということに、本当に必死になっていました。

 発達心理学者・浜田寿美男さんは、現在の子育て観についてこうおっしゃっています。「いまの子育て観、教育観では『子どもは大人になるための準備の時代』であるかのように思われていますが、そもそも人生に準備の時代というものがあるでしょうか。子どもは『子どものいま』という本番を生きています」と。
 大事なのは、子どもが「いま」、幸せかどうかです。死にたいほど行きたくない学校へ行くことや、まったく手につかない宿題をするのは、あまりに「いま」が犠牲になっています。「いま」を大切にする視点が子育てや教育においても大事だと思えてなりません。子どもが学ぶ場所、育つ場所はどこかということを根本的に考え直し、多様性がある学びの場を提供できるように流動性を高められるよう取り組んでいきたいですし、子どもたちの「いま」の声を聞き続けていきたいと思います。そして、「ひとりじゃない」ということを伝え続けたいと思っています。

石井 志昂氏
NPO法人 全国不登校新聞社 編集長

「同朋新聞」2020年11月号(東本願寺出版)より
著名人 2022 09