行信の獲得(※)について、親鸞聖人は「遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ」と言われている。縁とは、原因が結果を生むためのはたらきをするものである。宿縁は、遠い過去からの様々なはたらきがあることを表している。念仏もうすには、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(※)や、その本願を源として流れだした念仏の法灯を伝える歴史など、はるか昔からの縁がある。「遠く宿縁」とは、私たちの思いや考えもおよばないほどはるか昔からの、多くの人々の思いや願いがつながってきたことを示唆しているのである。このような宿縁によって獲るにもかかわらず、私は己のはからいしか見ていなかった。
毎日の生活の中でもうしている念仏の一声一声の背景には、師、同朋(どうぼう)、家族、先祖などの縁がはたらいていることが知らされる。しかし、縁とは自分にとって都合のよいものばかりではない。都合の悪いことをもまた含んでいるのである。念仏の救いには思いもおよばないほど広大な縁がはたらいていることを、親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と呼びかけてくだされたのであった。それは、善し悪しではからう、私の分別が破れたところに起こる慶びなのである。
私は、ものを持っているから、勝(すぐ)れているからなどの、付加したものに存在の意義を見がちであった。しかし、いのちがあることに、何らかの価値を付け加える必要はなかったのである。
現に私が生きているということ、そこに不可思議の縁がある。そのことが見えなくなっているから孤独を感じたり、生きづらくなっていたのであった。生きるということの背景には様々なご縁がある。本願を信じ念仏もうす身にさせていただいた事実について、「遠く宿縁を慶べ」と言われたことは、生きていること自体がよろこびであり、いのちは無条件に尊いことを教えていただいているのである。
- 「行信を獲る」
- 念仏と、そのいわれである本願の信を獲ること
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』親鸞
武田 未来雄氏
真宗大谷派 教学研究所所員
『真宗』(東本願寺出版)「教研だより」178号より
教え 2022 11