日本語で「死に触(ふ)れる」という言葉があります。一般的には、「物」の場合には「触(さわ)る」という言葉を使います。「触る」は、行為をする側の一方通行的な意味が強いのに対して、「触れる」は、「ふれあい」という言葉もあるように、双方向性、お互いにという側面があると言われています。(伊藤亜紗 著『手の倫理』参照)
不思議なことに、昔から「死に触る」という言葉はあまり使いません。ご遺体に「触る」という表現はしても、死に対しては「触れる」という言葉を日本人は使ってきました。非常に繊細な言葉の文化だと思います。私たちが大切な人の死に「触れる」ということは、冷たくなっていること、動かなくなっていることを一方的に確認するという作業ではないということです。死という事実そのものから、自分自身の存在が掴(つか)まれていく。その亡き人からの大切なメッセージに、自分自身の生き方が問い直されていく。こういった言葉ひとつを通してみても、大切な人の死に出あうということは一体どういうことなのかということを、昔の人は大切にされていたのだということが思わされます。
私自身、1年前に祖母を亡くしました。新型コロナの感染状況もあって、小規模の葬儀となってしまいましたが、幸いに四歳と七歳になる娘たちも参列することができました。出棺の際、子どもたちは不思議そうに祖母(子どもたちの曾祖母)の顔に触れていました。どこまで死の意味を理解していたかはわかりませんが、何か伝わるものがあったのではないかと思います。
このことは葬儀を営むことの大切な意味であると思います。最近、「葬儀に小さい子どもでも参加していいのですか」と聞かれることがあります。騒いで迷惑になるのではないかと心配されてのことだと思いますが、私はぜひ安心して参加していただければということを申しあげています。むしろ、お葬式の場に小さい子どもさんが参加することは非常に大事なことではないでしょうか。子どもが恐がってしまうという声も耳にしますが、大切な人が最後に伝えようとしているものに、たくさん触れさせてあげて欲しいと私は思っています。
花園 一実氏
真宗大谷派 圓照寺副住職(東京都)
真宗会館「お盆法要(2021年)」より
法話 2022 03