ときに人は、問うてみても答えようのないことを問わずにおれないときがあります。とりわけ愛する人との別れは、頭でわかっていても「なぜなんだ」と、その死を問わずにはおれません。私たちは人間である以上、必ずこの別れの悲しみに立ち尽くさざるを得ないのでしょう。人間には、どのような知識をもってしてでも間に合わないことがあります。
人間であるがゆえに避けることのできない悲しみを誰しもが持つ。それは〈人間であることの悲しみ〉と言えます。別離による〈人間の悲しみ〉の底には、〈人間であることの悲しみ〉が流れています。
阿弥陀仏(あみだぶつ)の大悲(だいひ)は、人間であるがゆえに誰もが持たざるを得ない悲しみのうえにかけられているものです。私たちは、日々の生活の中で、自分の思いではどうしてみようもない悲しみややるせなさを抱えて、ときにそれを隠したり押さえつけたりして生きています。しかし、その人知れず流す悲しみの涙に、静かな眼差しを向けている大悲の心があります。それは人間であることの悲しみを知り、その悲しみを共にしようとする仏の心です。私たちの悲しみや涙は、仏の大いなる悲しみに出遇(あ)う場でもあります。
人は何に救われるのか。「がんばりなよ」の励ましの言葉もありがたいけれども、それは流れる涙を乾かしていかなければなりません。しかし乾ききらない涙があることも、また事実です。かえってその涙の悲しみを知り、共感共苦しようとする心に触れることによって、この涙は居場所を得ていくものではないでしょうか。
藤井 眞翔氏
真宗大谷派 西光寺(長崎県)
真宗会館広報誌『サンガ』168号より
法話 2022 08