現代語の「勝利」は「戦いに勝つこと」ですが、仏教語の「勝利」は「すぐれた利益」を意味します。「勝」は敵対するものに勝つという意味ばかりでなく、「すぐれている」という意味があります。親鸞は、「一切の功徳(くどく)にすぐれたる 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)をとなうれば 三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」と和讃で詠います。「一切の功徳にすぐれたる」とは、この世の幸福を超越したすぐれたはたらきのことで、これが南無阿弥陀仏のはたらきです。「三世の重障」とは、過去・未来・現在の中を彷徨(さまよ)っていることの重さで、これを転換して「軽々とした世界」を与えようというのです。
「かならず転じて軽微なり」とは、何を転じるのでしょうか。それは「意味」です。この世では、どんな幸福も「死」の前には輝きを失います。「死」は人生の意味を失わせますが、その「意味」が転換されたらどうでしょう。「死」を重たい障(さわ)りのように感じられていたものが、「死」の意味が転換され、人間に〈真実〉を教える教材となればどうでしょう。たとえ「死」はなくならなくても、「死」を軽く受け止められるのではないでしょうか。それが「軽微」という意味です。
そもそも人間は「自分自身の死」を体験することはできません。体験するときは、体験する身体機能が停止しているからです。「一人称の死」、つまり「本当の死」を知らないのに、死を知っているかのような顔で生きてきたのです。でも、この「本当の死を知らない」ということは、救いです。「本当の死」を知らないのに、死を知ったかぶりで怖れていたのですから。死が、暗く冷たく寂しい世界だと感じるのは、「知ったかぶりの知」が感じているだけのことです。
こうやって私を教育して下さるのが阿弥陀さんです。「知ったかぶりの知」の傲慢(ごうまん)さを知らされると、「死」が違ったものに感じられます。果たして「本当の死」とはどのようなものなのでしょうか。こうやって人間に問いかけ、決して「結論」を握らせないのが阿弥陀さんの救済方法です。これが「転じて軽微なり」が意味するところです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 08