2022年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 親鸞聖人が『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』において、『正法念経(しょうぼうねんぎょう)』から引かれた一節です。いのちを尊ぶ、平和の教えである仏教の世界観を象徴する教えとして、広く知られていても良さそうな言葉です。そして、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』に説かれる「国豊民安 兵戈無用(こくぶみんあん ひょうがむよう)」の一節などもあります。
 「兵戈無用」と「兵戈戦息」に共通するのは、「兵戈」です。戈とは、槍や刀など武器そのものを意味するので、「兵戈」と言った場合は、兵隊が武器を持って整列している状態も含んでいると思われます。先ほどの『仏説無量寿経』は、「国豊かに民安し。兵戈用いることなし」と書き下しされているように、「兵戈」を必要としない平和な世界が仏教の広がりと共にあると説かれています。

 では、「兵戈戦息」とはどういう意味なのでしょうか。「息」の意味を辞書で引きますと、人間の営みに欠かせない「呼吸」を指すサンスクリット語のプラーナのように、具体的な状態を表す他に、いくつかの意味を持っています。「息が合う」と言った場合には「気が合う」という意味合いになりますし、消息の「便り」を意味することもあります。そして、息災のように、「やすむ」「やめる」「ほろびる」と表現されるような、「物事の状態が変化し、安らかにする」という意味を含んでいます。以上を踏まえると、「兵戈戦息」の「息」は、「治まる」という意味として捉えることができます。
 この「兵戈戦息」を含む一節は、実は「戒」の文脈で語られているため慎重に読まなければなりませんが、人間が兵隊となって、殺人兵器を持って戦場にかり出されるような状態から脱する価値観が提示されていると理解できるのではないでしょうか。

 経典にはこのように説かれています。そして、過去も現在も未来も、いつの時代にあっても平和な世の中を求める声は絶えることがありません。それでも、世界は戦争の惨禍に繰り返しさらされています。ここに仏教はどう関わることができるのでしょうか。真実の仏教が広まれば、戦争は治まる方向に向かうのではないでしょうか。社会的実践が叫ばれるようになって久しい現代社会において、そこに真実の仏教が息づいているのかどうか。それを聞き続けるわたしの態度が問われているということだと思います。

『仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『正法念経』

新野 和暢氏
真宗大谷派 教学研究所嘱託研究員
『ともしび』2016年5月号より
教え 2022 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語の「勝利」は「戦いに勝つこと」ですが、仏教語の「勝利」は「すぐれた利益」を意味します。「勝」は敵対するものに勝つという意味ばかりでなく、「すぐれている」という意味があります。親鸞は、「一切の功徳(くどく)にすぐれたる 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)をとなうれば 三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」と和讃で詠います。「一切の功徳にすぐれたる」とは、この世の幸福を超越したすぐれたはたらきのことで、これが南無阿弥陀仏のはたらきです。「三世の重障」とは、過去・未来・現在の中を彷徨(さまよ)っていることの重さで、これを転換して「軽々とした世界」を与えようというのです。

 「かならず転じて軽微なり」とは、何を転じるのでしょうか。それは「意味」です。この世では、どんな幸福も「死」の前には輝きを失います。「死」は人生の意味を失わせますが、その「意味」が転換されたらどうでしょう。「死」を重たい障(さわ)りのように感じられていたものが、「死」の意味が転換され、人間に〈真実〉を教える教材となればどうでしょう。たとえ「死」はなくならなくても、「死」を軽く受け止められるのではないでしょうか。それが「軽微」という意味です。
 そもそも人間は「自分自身の死」を体験することはできません。体験するときは、体験する身体機能が停止しているからです。「一人称の死」、つまり「本当の死」を知らないのに、死を知っているかのような顔で生きてきたのです。でも、この「本当の死を知らない」ということは、救いです。「本当の死」を知らないのに、死を知ったかぶりで怖れていたのですから。死が、暗く冷たく寂しい世界だと感じるのは、「知ったかぶりの知」が感じているだけのことです。

 こうやって私を教育して下さるのが阿弥陀さんです。「知ったかぶりの知」の傲慢(ごうまん)さを知らされると、「死」が違ったものに感じられます。果たして「本当の死」とはどのようなものなのでしょうか。こうやって人間に問いかけ、決して「結論」を握らせないのが阿弥陀さんの救済方法です。これが「転じて軽微なり」が意味するところです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 08

僧侶の法話

言の葉カード

 ときに人は、問うてみても答えようのないことを問わずにおれないときがあります。とりわけ愛する人との別れは、頭でわかっていても「なぜなんだ」と、その死を問わずにはおれません。私たちは人間である以上、必ずこの別れの悲しみに立ち尽くさざるを得ないのでしょう。人間には、どのような知識をもってしてでも間に合わないことがあります。
 人間であるがゆえに避けることのできない悲しみを誰しもが持つ。それは〈人間であることの悲しみ〉と言えます。別離による〈人間の悲しみ〉の底には、〈人間であることの悲しみ〉が流れています。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)の大悲(だいひ)は、人間であるがゆえに誰もが持たざるを得ない悲しみのうえにかけられているものです。私たちは、日々の生活の中で、自分の思いではどうしてみようもない悲しみややるせなさを抱えて、ときにそれを隠したり押さえつけたりして生きています。しかし、その人知れず流す悲しみの涙に、静かな眼差しを向けている大悲の心があります。それは人間であることの悲しみを知り、その悲しみを共にしようとする仏の心です。私たちの悲しみや涙は、仏の大いなる悲しみに出遇(あ)う場でもあります。

 人は何に救われるのか。「がんばりなよ」の励ましの言葉もありがたいけれども、それは流れる涙を乾かしていかなければなりません。しかし乾ききらない涙があることも、また事実です。かえってその涙の悲しみを知り、共感共苦しようとする心に触れることによって、この涙は居場所を得ていくものではないでしょうか。

藤井 眞翔氏
真宗大谷派 西光寺(長崎県)

真宗会館広報誌『サンガ』168号より
法話 2022 08

著名人の言葉

言の葉カード

 病院に勤めていた時は、ご家族からも何とか延命処置をしてほしいと言われることもたくさんありましたが、四万十(しまんと)に来てからは、あまりそのようなことを言われることはありませんでした。四万十川は一年をとおしてさまざまな移り変わりがありますが、その流域に生きる植物や動物にも同じように移り変わりがあり、それらのいのちには必ず終わりがあります。いのちの終わりは人間だけが特別なのではなく同じなのだと思うのです。生まれたら必ず死ぬという覚悟、死に対する受容が四万十の人たちには強くあるのではないかと感じています。ですから、四万十での在宅の看取りというのは、医者が頑張って手を加えるのではなく、ご家族と一緒に見守ることなのです。
 医者は本来手を加えるためにいるようなものですから、逆に何もしないで見ているだけというのは、それなりの勇気とエネルギーが要ります。動物や植物も自然の中でいのちを終えていくのですから、人間も自然にいのちを終えていくのが大切なのではないかと思うのです。そこには本人と家族の覚悟が必要です。その覚悟をもった時に、本当のいのちのあり方が見えてくるのではないでしょうか。

 現代は、人間を科学的に見ようとする風潮がありますから、死んだらすべてが終わりという発想になってしまいがちです。ですから、大きな病院では医者は死ぬまでは頑張ってくれますが、死んだらそこで全てが終わりになってしまいます。しかし、私は死んだら終わりではないと思っています。患者さんの死亡診断書を書くだけでは終わりません。時にはお通夜にお参りさせていただき、ご家族といっしょに亡くなったことを受け止めています。
 四万十では人生の最期を「いのちの仕舞い」と呼んでいますが、この言葉は単にいのちの終わりを表しているのではなく、今を生きるということにも繋がってくるのだと思います。高齢化がますます進む昨今ですが、そういう意味で、私たちの生き方やいのちとの向き合い方が問われているように思います。

小笠原 望氏
医師・大野内科院長(高知県四万十市)

「同朋新聞」2020年6月号(東本願寺出版)より
著名人 2022 08