人間は、どうしても、自己主張、自己執着の自分の思いを破る言葉に、出会わねばなりません。つまり、「本尊」を見つけなくてはなりません。それが、宗教の存在する意味だと、私は理解しています。
本尊を、本当に尊いことを見つけられずに、自分の思いを本当としていく限り、どうしても最後には、思い通りにならなかったことに、愚痴(ぐち)を言い、自分で、自分を見捨てなくてはならなくなります―。
現代に生きる私たちは、あまりにも、他からの評価にとらわれています。役に立つものは受け入れるけれど、そうでなければ、切り捨てる。間に合うものは許すけれど、間に合わなければ、排除する。すべてのものを、すべての事を、たった2つのものさしでしか見ない小型人間、狭い視野でしか物事を判断しない小さく縮こまった人間に陥っています。
そのものさしが、いのちのレベルにまで使われるようになりました。自分の手の出せぬ領域にまで、評価のものさしが入りこんでしまっています。その結果、せっかくこの世に誕生させてもらったのに、誰とも本当につながれず、孤独に陥って、心が傷つき、自ら死をえらぶ人が後をたちません。今、いのちがあなたを生きています。思い通りにならない、と苦しんでいるのは、本当でないものを、本当としているからです。役に立たないと苦しんでいるのは、自分のすべき仕事を忘れて人の仕事ばかり気にかけているからです。
あなたが、悩み、苦しんでいるのは、あなたの本体であるいのちから、その事を知らせる、信号です。無量寿(むりょうじゅ)のいのちは、いつも「あなたはあなたに成ればいい」「あなたはあなたであればいい」と願い続けています。立ち止まって、耳をすませてください。
「今、いのちがあなたを生きています」
渡邉 尚子氏
真宗大谷派 守綱寺前坊守(愛知県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2022 04