「開発」を「かいはつ」と読めば「天然資源などを人間の生活に役立つようにすること」ですが、「かいほつ」と読めば仏教語です。その意味は「他人をさとらせる、信心を引き起こす」などがあります。仏道を求めるこころを「菩提心(ぼだいしん)」と呼びますが、菩提心が引き起こされるまでには、さまざまな「開発」が関わっています。
親鸞の場合、師の法然(ほうねん ※)と出遇(あ)わなければ、〈真宗〉は開かれなかったでしょう。いわば法然に「開発」されたのです。もっと遡れば、比叡山で学ばれた20年間も「開発」でしょう。親鸞は二十九歳のとき、「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す」(『教行信証』後序)とおっしゃっています。それまで学んできた20年間を「雑行」と見て、それを「棄て」たのだと解釈することもありますが、棄てるものがなければ、棄てることも叶いません。棄てるべきものが縁となって「本願に帰す」ことができたのですから、それも「開発」の手助けだと受け取れます。いずれも〈真宗〉に開かれた〈いま〉という時点から振り返ったときに、様々な出遇いが「開発」の手助けだった、ひとつも無駄はなかったと、初めて受け取ることができるのです。
本願寺第八代の蓮如(れんにょ ※)は「宿善開発(しゅくぜんかいほつ)」ということを言います。「宿善」とは、「過去世で培われた信仰的感性」のことで、〈いま〉信心がいただけるのは過去世で培われた「宿善」のお蔭であり、それが〈いま〉「開発」されたと受け取っています。「他力の信心」は、とてもこの世にいる間だけで培われるものではない、過去世の何代にも渡って培われてこなければ、自分には起こることがなかったと受け取っているのです。
法話の前に皆さんと唱える「三帰依文(さんきえもん)」には、「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも値遇(あいあ)うこと難(かた)し」とあります。ここでは「百千万劫」という〈永遠〉とも思える時間が「開発」の時間だったと振り返っています。「他力の信心」とは、それほどに重く、深いものだと教えられます。
- 法然(1133~1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖
- 蓮如(1415~1499)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 04