「地中蓮華、大如車輪。靑色靑光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光。微妙香潔」。
(ちちゅうれんげ、だいにょしゃりん、しょうしきしょうこう、おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう、びゃくしきびゃっこう、みみょうこうけつ)
ここでは、人間が苦しみから救い取られる世界を、蓮の華の咲く様として語られています。蓮は泥田のなかに華を咲かせます。泥田は、人間社会のさまざまな苦渋に満ちた出来事を指しています。「碍(さまた)げ」に満ちた時代や社会の出来事のなかから「転換」して、大輪の蓮の華が咲く様は、救い取られた晴れやかな世界を見せてくれます。「地中蓮華、大如車輪」と、大きな車輪のような蓮の華が咲く様は、
「靑色靑光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と、青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光、と説かれています。その姿こそ「微妙香潔」であり、そのことが素晴らしい、と繋がります。
ひとは、お仕着せの「らしさ」を身に纏(まと)い、「みんな」と同じになることに腐心し、安住しようとしています。しかし、その泥田から救い取られた蓮の華は、それぞれの光を放ち、その姿が実に尊い。そこには、借り物ではない「じぶん」の人生を生きること、また、なにも隠したりする必要のない、それぞれが誰と比較されることなく、「じぶん」の人生の色と光を放ち「ともしび」となることが説かれています。
『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう ※)』
- 『仏説阿弥陀経』
- 浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。
佐賀枝 夏文氏
心理カウンセラー・高倉幼稚園 前園長
月刊『同朋』2016年2月号(東本願寺出版)より
教え 2021 10
現代語の「知識」は「ある事項について知っていること。また、その内容」(『広辞苑』)です。仏教語の「知識」は、情報ではなく「ひと」を表します。特に仏教に縁を結んで下さる導き手のことです。
現代は情報社会と言われるほどに、「知識」が要求されます。この「知識」は、この世をいかに上手く生きるかということには役に立ちます。しかし、この世をなぜ生きるのかという問いには無力です。この問いの意味を開いて下さる導き手に遇(あ)うことが最も大切だと仏教は教えます。
親鸞は「一切梵行(いっさいぼんぎょう)の因、無量なりといえども、善知識(ぜんじしき)を説けばすなわちすでに摂尽(しょうじん)しぬ」(『教行信証/きょうぎょうしんしょう』)と述べています。つまり、「仏教には覚(さと)りをもとめる方法がたくさん説かれているが、善知識という一言を説けば、その中にすべてが摂(おさ)め尽くされているようなものだ」という意味です。
人間は自分の思い込みで物事を考えてしまう傾向が強いです。この思い込みの眼で仏書を読んでも、自分の思い込みの知識でしか答えを得られません。この思い込みの眼を外部から批判して下さるのが「善知識」です。「善知識」が大切だというのは、それほどまでに人間は思い込みの強い生き物だということを表しているのでしょう。もし親鸞が、師の法然上人に出遇うことがなければ、〈真宗〉は開示されませんでした。そうすると私が今日、「真宗門徒」になることもできませんでした。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 10
-
先日、高校の教員をなさっておられる方のお話を聞かせていただく機会があった。先生は不登校の子どもたちと向き合っておられる。その折にお聞かせいただいたお話である。
テストで99点を取った子が学校から帰って母親に見せると、返ってきたのは「どこが間違ったの? この次は100点取れるわね」という言葉であった。また、ある中学校で生徒と保護者双方に「あなたが家庭で親から言われる言葉で一番多いのはどんな言葉ですか?」というアンケートを実施したら、双方の回答で半数以上を占めたベスト1の言葉は「早くしなさい」であった。
「できて当然」という前提でものを言う大人たちから、否定的な言葉を浴びせられる子どもたちは疲れている。自己肯定感が持てないでいる。「できる」という前提を捨てて「できない」という前提に立てば子どもたちの頑張りが見えてくる、と。(立花高等学校(福岡県)齋藤眞人校長のお話より)自分の子育てを振り返り考えさせられた。
ところで、私たち大人はどうだろうか? 分別の心でもって物事を分類比較し、都合のよいものを手に入れ都合の悪いものは排除しようとする。「健康で長生きが一番」、「他人の手を煩わせるような状態になってまで生きていたくない」などの言葉を耳にすることがある。そういう前提に立てば、老いや病の自分に対して自己肯定感は持てるはずもない。仏教はそこに人間の傲慢(ごうまん)さを指摘し、そのような人間の有り様を無明(むみょう)と押さえた。
作家・天童荒太氏は「小説『歓喜の仔』に登場する子どもたちが、どんなに辛い境遇に置かれても決して絶望することがないのは、親から愛されてきた、根っこのところに愛されていたということがあるからだ。愛というのは言い換えれば肯定感、〈生きていてもいい〉という根本的な肯定感を貰えているがゆえにひとりでも生きていけるのだ」と真宗会館広報誌『サンガ』(No.126)の中で述べられておられる。
また、「人間にとって究極的に必要なものが4つある。それは衣・食・住、そして物語だと思う。物語こそが人間を人間たらしめるものだと思う」と言われている。氏は「物語」ということについて、「例えば人間が『これをしてはいけない』という法律以前の決まり事を受け継いできたのは物語だと思うし、それが常識とか倫理を形づくってきた」と言われる。
私たちは日常生活の中でどのような物語を聞き、そして語り続けているのであろうか。ともすると、その多くは無明の闇の中で紡がれた物語ではないだろうか。私たちの先達は「選ばず・嫌わず・見捨てず」という真実の世界からの名告(なの)りである南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の物語を語り継いできた。今日そういう物語が聞かれなくなったように思うのは私だけであろうか。
村上 秀麿氏
真宗大谷派 光明寺住職(福岡県)
「遇我遇仏」2013年12月号(真宗大谷派 日豊教区)より
法話 2021 10
結局、動物の感性はデータや理屈で割り切れないじゃないですか。例えばアザラシやカバを観察したデータというのは、あくまでデータなんですよね。直接会話をして知る、感情の入ったものではない。しかし、人間は動物をそういうデータで理解したような気になっている。そんなデータでうちの園にいるカバの百吉の感性がわかるのかというと、わからないですよね。ですから動物園は、動物のデータでは見えない部分、感性やいのちを感じられる場所でもあると思うんです。
大事なのは、生き物がいる空間はこんなにも居心地がいいんだと感じられること。また、自分の優しさや眠っていたものが、ふと発揮できるような環境があるということに気づくことですね。そうなったらきっと動物園に来て、すごく心地よくなる。そして例えば困っている人に声を掛ける気持ちがふと起こって、家に帰っても普段の生活環境の中でその気持ちが生き続ける。そんなことも起こるかもしれない。そういう繰り返しが皆さんの中で起こったら、今の世の中が、誰かのせいにするとか、お金で解決するという息苦しい世の中ではなくなっていくのかなと思います。
僕は付加価値さえ見つけられれば、今の世の中のままでも幸せになれるかもしれないと思っているんです。「優しさの付加価値」といいますか、例えばそよ風が吹き、木の葉っぱの音が“さぁぁー”と聞こえて、秋を感じたり、スズメが“ちゅんちゅん”と鳴いている声を耳にして、自分もふと優しい気持ちになれる。そんな感性を育てたいんです。今、本当にそういうことが感じられないですよね。それをどうにか動物園で、ということです。
坂東 元氏
北海道 旭山動物園園長・獣医師
「同朋新聞」2018年1月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 10