現代は強大な経済中心のシステムの中、労働力を使い尽くして利益を得ていくことが最優先されています。いまだにそういう社会なので、日本国憲法の自民党改憲草案の前文には、経済成長に資することが、国民の生き方であるということが書いてあるわけです。“経済成長のために私たちは生きているわけではない”と叫びたくなりますが、現に今、経済成長に資するために、時間をかけて食べるというプロセスを切ってもいいやと思わせるような、忙しい社会になっているんです。
そう考えると、現代社会は、労働のために生きているというような、ひっくり返った社会であることに気づきます。
おいしいものを食べて、おしゃべりをする、こんな面白いことはないのに、今はそれを限界まで削って、仕事をしています。でも、人間的であるならば、本当は働いている時間を惜しんで食べなきゃいけないんですよね。逆転した社会を考え直す必要性を感じます。
それから私は、食卓は死者と生きている人との交流の場所だと思っているんです。なぜなら、まず食卓に上がっているものは全部死骸なので、生と死の交流の場ですよね。
食卓はその場にいない者とのつながりを確認する場だとも思います。その場にいない者は、たまたま来ることができなかった人かもしれないし、亡くなった母親かもしれないし、親鸞聖人かもしれない。その不在な者を味わう場所というのも食卓の機能ですよね。お斎(とき)の場もそれに通じる願いがあるように感じます。
藤原 辰史氏
京都大学人文科学研究所准教授
「同朋新聞」2018年9月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 11