ある先生が、『人間は命が終わると「死者」として生まれる』というお話をされていましたが、死者が生まれると同時に「死者と共にある生者」もまた生まれてくるのでしょう。
今から十三年前、義父(前住職)が悪性リンパ腫で亡くなっていきました。危篤の知らせを受け、慌てて自宅から二百キロ余り離れた病院まで走らせました。義父は私の顔を見るなり何かを懸命に伝えようと声をあげていましたが、言葉になりませんでした。しかし同じ言葉を二回繰り返して言ってくれたので、口の形だけで内容を知ることができました。
「アトヲタノム アトヲタノム」
「後をたのむ」でした。「わかったよ。わかったよ」と、私は即座に答えました。
義父の最後の言葉を今も考え続けています。「いったい何をたのまれたのだろうか」。このことが私の大きな課題となりました。家のこと、お寺のこと、それとも宗門(しゅうもん)のことだろうか。今ではそれらを含めて、「この世」のことではないだろうかと考えています。よく考えてみると「後をたのむ」とは何かしらの「願い」があって初めて成立する言葉です。一人の一生をもってしても終わりのない願い。一生をかけても悔いのない願い。この時の「後をたのむ」には後悔の意味は少しも入っていなかったのではないかと思います。やり残したから後をたのむのではない。やり尽くしたからこそ「後をたのむ」なのでしょう。義父が出会ったものの大きさを考えさせられます。
名畑 格氏
真宗大谷派 名願寺住職(北海道)
小冊子『お彼岸(2019年春)』(東本願寺出版)より
法話 2021 05