「荘厳(そうごん)」は「たっとくおごそかなこと。重々しく立派なこと」ですが、「荘厳(しょうごん)」と読めば仏教語で、インド古代語のビューハの訳語で「みごとに配置されていること」という意味です。仏の説法の場所を美しく飾ることなどから、仏像や寺院を飾ること、またその装飾に用いるものを意味するようになりました。しかしよく考えてみると、この世のあらゆる事物は、阿弥陀(あみだ)さまから生みだされた「荘厳」と言えないでしょうか。ボールペンひとつを見ても、そこには無量無数の材料と人の手が関わっています。ボールペンがそこにあることの意味と、私が存在していることの意味は、同じ重さなのかもしれません。
ふと庭を見ると、そこにひとつの石ころが落ちていました。私は、なんでこんなところに石が転がっているのだろうと思いました。誰かが転がしていったものか。しばらく経つと、その石から問われたのです。「私がここに転がっているのと、貴方がそこにいるのは同じではないですか」と。確かに石がそこに落ちている因縁(いんねん)は無量無数です。もともと山にあったものか川にあったものか。どこからか切り出され、川に流されたのか。角が削り落とされて丸々としています。石ころが、そこにあるのには不可思議(ふかしぎ)の因縁が関わっています。それは私の存在の因縁と同じでした。
私の親は二人、祖父母は四人、曾祖父母は八人。十代も遡(さかのぼ)れば千二十四人です。私が私として誕生するための因縁は、どう考えても不可思議です。そう思うと、その石ころと私の存在の重さは同じでした。石ころが仏法(ぶっぽう)を教えて下さる「荘厳(しょうごん)」のはたらきをしてくれたのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 05