「末代」には「末世(まっせ)・末の世・死んだ後の世」などの意味がありますが、仏教語としての意味は「お釈迦さまが亡くなられてから遠く年月を経た末の時代」です。それと似た意味で「末法(まっぽう)」も使います。親鸞は、「像末法滅同悲引(ぞうまつほうめつどうひいん)/像末法滅、同じく悲引す」(『正信偈(しょうしんげ ※)』)と言い、お釈迦さまの時代も、それから後の時代も、仏法(ぶっぽう)が滅びようとしている時代も、すべて同じように阿弥陀(あみだ)さんは悲しまれ救おうとされていると読んでいます。末法だから悲しむのではなく、末法だからこそ阿弥陀さんに出会うチャンスだと言うのです。
仏教は、お釈迦さまの時代から遠く隔たり、ますます人々から省みられないように感じます。それが「末法」という歴史観です。しかし、本来、阿弥陀さんの悲愛は時代を超えているものですから、お釈迦さまの時代も、そして「末法」の現代でも変わらないはずです。変わらないはずのものを、人間は「末法だから世も末だ」と悲観的に受け取ってしまいます。この悲観的な受け取りを打ち破るようにして、親鸞は「像末法滅同悲引」と詠ったのでしょう。
親鸞は、この「末法」こそが仏法に出会うチャンスであり、「末法」だからこそ、阿弥陀さんの悲愛が強く激しくなると訴えています。
- 正信偈
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 03