2021年弥生(3月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう ※)』というお経では、土地があればあったで所有している土地のために憂い、また、なければないで自らの土地を所有したいと思ってまた憂う存在だと教えています。つまり、人間は有っても無くても憂う存在であることが教えられるのです。何かが不足して憂うばかりではなく、足りても憂うのです。
 同じ相続でも、遺産相続と仏教を後世に伝える仏法(ぶっぽう)相続は大きな違いがあります。遺産の相続ももちろん大切です。しかし、人の世に生まれ、人間として空しくない人生を教えてくださった仏さまの世界を身をもって伝えていく仏法相続こそ大切なことではないかと私は思います。  「外を満たせば、内も満たされると思っているが、そんなことでゴマカシのきかないところに、人のいのちの尊さがあるのです」と教えてくださった石川県の松本梶丸先生(まつもとかじまる ※)の言葉が響きます。
 本当に満足していく世界を身をもって「今さえ良ければ」「私さえ良ければ」の世界にさよならを告げ、過去と未来に責任をもって現在(いま)を生きぬき、空しくない、手応えある世界があることを後世に伝えていくことこそが、大切な宝になっていくことでしょう。今ほど仏法を相続していくことが求められている時代はないと言っても過言ではないと思います。
 念仏詩人の浅田正作(あさだしょうさく ※)さんは、「死ぬことが 情けないのではない 空しく終わる人生が やりきれないのだ」と言われます。
 私はこの言葉を心に刻んで生きていきたいと願っています。

『大無量寿経/仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。
松本梶丸(1938~2008)
石川県、真宗大谷派僧侶
浅田正作(1919~)
石川県出身

『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』

今泉 温資氏
地域同朋の会「往生人舎」主宰
『僧侶31人のぽけっと法話集』(東本願寺出版)より
教え 2021 03

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「末代」には「末世(まっせ)・末の世・死んだ後の世」などの意味がありますが、仏教語としての意味は「お釈迦さまが亡くなられてから遠く年月を経た末の時代」です。それと似た意味で「末法(まっぽう)」も使います。親鸞は、「像末法滅同悲引(ぞうまつほうめつどうひいん)/像末法滅、同じく悲引す」(『正信偈(しょうしんげ ※)』)と言い、お釈迦さまの時代も、それから後の時代も、仏法(ぶっぽう)が滅びようとしている時代も、すべて同じように阿弥陀(あみだ)さんは悲しまれ救おうとされていると読んでいます。末法だから悲しむのではなく、末法だからこそ阿弥陀さんに出会うチャンスだと言うのです。

 仏教は、お釈迦さまの時代から遠く隔たり、ますます人々から省みられないように感じます。それが「末法」という歴史観です。しかし、本来、阿弥陀さんの悲愛は時代を超えているものですから、お釈迦さまの時代も、そして「末法」の現代でも変わらないはずです。変わらないはずのものを、人間は「末法だから世も末だ」と悲観的に受け取ってしまいます。この悲観的な受け取りを打ち破るようにして、親鸞は「像末法滅同悲引」と詠ったのでしょう。
 親鸞は、この「末法」こそが仏法に出会うチャンスであり、「末法」だからこそ、阿弥陀さんの悲愛が強く激しくなると訴えています。

正信偈
正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 03

僧侶の法話

言の葉カード

 春彼岸の季節になると、決まって先生との出遇(あ)いを思い出します。何年経っても忘れることができません。「君は、周りに人がいても楽しくないのだろう。一人でも生きていることが楽しくも嬉しくもないのだろう。それは親鸞聖人の仏教でなければ絶対に治らない病気だ」。私の闇を照らし出す言葉でした。
 当時私は、誰にも迷惑をかけずに存在そのものが泡のように消えてなくなればいいと思っていました。しかもそれを他人にも自分自身にも隠してそしらぬ顔をしていたのです。そのため一体自分がどうなりたいのかも定まらず、自分自身に対しても斜に構えていました。そんな私を真っ直ぐに見つめて、延塚知道(のぶつかともみち ※)先生は声を掛けてくださいました。「あなたが、あなた自身から目を背けようとしても、私には、あなたのことが見えています」と言われたように感じ、全く意味がわかりませんでした。自分に起こった感情が何かもわからず、その場を動けませんでした。
 後にそれが仏教との出遇いであることを先生は、松原祐善(まつばらゆうぜん ※)先生との出遇いをとおして教えてくださいました。先生ご自身は松原先生から「善いところも悪いところも丸ごとあんた自身じゃないかね。どうして丸ごとの自分を愛せない者が、周りの人を愛することができますか」と声を掛けられたことが決定的だったと語ります。先生は、ご自身の話をしていただけなのですが、私には「消えてなくなればいいと、自分で自分を傷つけてはいけない。いのち自身の本当の欲求は、丸ごとの自分を愛し、周りの人を愛する人(仏)に成っていくことである」と圧倒的な迫力で言葉がせまってきました。

 私には聞くことのできない、いのち自身の声をはっきり語る先生のことを「この人は、私よりも私のことを知っている」と思いました。生きることの瑞々しさを失わせていたのは、誰のせいでもなく自分が自分自身に対して冷たく接していたからです。しかしいのち自身は、自分が自分自身になれない悲しさをずっと受け止めていました。そして本当に求めていることは、いのちの法則にあずかる者に成っていくことであると叫んでいたのです。私の中に、仏に成りたいという心があるとは思ってもみなかったのですが、ようやく私の本心に気がついたのです。

延塚知道(1948〜)
大谷大学名誉教授
松原祐善(1906〜1991)
大谷大学教授、同学長を歴任

寺林 彰則氏
大谷専修学院 元指導補

小冊子『お彼岸(2018年春)』(東本願寺出版)より
法話 2021 03

著名人の言葉

言の葉カード

 震災から2、3年、ぼく自身が立ち直れなくて、うつ状態で仕事もできない状態だったのですが、岩手にある「なかほら牧場」という、山に完全に牛を放牧する山地(やまち)酪農をしている方を訪ねる機会があったのです。
 そこは乳牛を飼育している牧場なんですが、牛舎がないんですね。牛は完全に山に放牧されていて、好きなものを好きなときに食べる。それで一日2回だけ山を下りてきて、搾乳させてくれる。それが終わるとまた山に戻る。そこで自由に子どもを産む。牛たちが山の草を食べて、そこでどんどん大きく成長して、その糞尿(ふんにょう)がまた山に返って、山と牛が一つのいのちのようにサイクルを繰り返している。そこから人間が少しだけ恵みをいただくのが牛乳だったり、チーズだったりバターだったりするんです。そういうものと触れたときに、いのちというのは、単に皮膚の境界線で区切られるものではなくて、もっと大きい感覚でも感じることができるんですね。

 また、四季折々、本当にいろいろな姿を見せてくれる自然深い山だったので、春が来て、夏が来て、秋の紅葉が来て、また冬が来て、雪が降ってあたり一面まっ白になって。東北の冬って厳しい冬なので、葉っぱ一枚残っていない山になり、生き物一匹、虫一匹見えないような冬が来るんです。だけど、そのときに酪農家の中洞(なかほら)さんが、「冬というのはいのちがないように見えるけれども、そうではないんだよ」とおっしゃるんですね。
 山に降り積もった雪が地熱でじわじわ溶けていって、それが山の中に溶け込んでいく。長い時間をかけて蓄えられた雪が、春の芽吹きにつながっている。冬というのはいのちがない季節ではなく、いのちを育む季節なんだということを聞いたときに、これは人間の心と同じなんじゃないかと思ったんですね。

 悲しみに暮れる日々は、いのちの奇跡を染み渡らせるための大切な時間なのかもしれません。震災から9年経(た)った今、暖かな春を感じることのできる人もいれば、まだまだ長い冬のなかで大切な人を思って悲しんでいる人もおられるでしょう。でも、いつかまた、その人の心に春の陽光がさすときまで、周囲の人々や社会が、その悲しみを温かく見守ることのできる世界になれば、それこそが「復興」の第一歩となるのではないでしょうか。

佐藤 慧氏
NPO法人Dialogue for People代表
フォトジャーナリスト・ライター

著名人 2021 03