仏教は、無明(むみょう)という根源的な苦しみの原因を誰もが持っていると教えます。その無明とは、真実をありのままに知ることができず、それがもととなって私(我)への執(とら)われに縛られて生きる人間の姿を言い表す言葉です。つまり人間とは自我にとらわれていく中で、自他を区別し、自分にも他者にも優劣のレッテルをはり、そのことによってお互いが傷つけあっている、それが現実の姿ではないかと仏教は語るのです。また、だからこそ、このような苦しみと差別とを生み出しつづけていくあり方から人間がいかに解放されていくのかを仏教は課題としてきました。
その仏教の歴史の中で、殊に親鸞聖人は、自己中心的な愚かさと差別する心とをどうしても避けることのできない身の事実として深く自覚した人です。それゆえに、一人ひとりのいのちの尊厳と平等性を見失いながら生きる人間を「われら」と受けとめ、その現実を共に担って歩んでいかれます。それは、「えらばず」「みすてず」皆同じく苦しみから超えさせていく教えに出遇(あ)いえたからこそ開かれた親鸞聖人の生き方です。
そのような親鸞聖人の教えを直接聞き学んだ唯円大徳が書かれた『歎異抄(たんにしょう)』には、次のような言葉が記されています。
まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり
人間の語る「よしあし」は、「これは善」と決めつけた瞬間に、「これは悪」という決めつけをも生み出さずにはいません。このような「よしあし」という発想のみで人のいのちを見ていけば、どうなるでしょう。歴史を振り返れば、いのちを人間の尺度で価値判断し、「価値がない」いのちは殺害してもいいというところまで人間の愚かさは突き進んでしまうことが分かります。
『歎異抄』のことばは、そのような愚かさをもつのが人間であり、だからこそ、その人間の痛ましさ、愚かさを徹底して照らし出し、どれほど深いか想像しえないほどの、人間の闇全体を支えうる拠り所が必要であると教えているように思います。私たちの差別する心を深く強く悲しみつつ、その事実に立ち上がり、すべての人々と共に生きるあり方へとすすむ力を与えるもの、それこそがいかなる者も誰一人見捨てないと誓った阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん ※)であると親鸞聖人は私たちによびかけつづけているのです。
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
『歎異抄』(唯円)
藤元 雅文氏
大谷大学准教授
月刊『同朋』2016年12月号(東本願寺出版)より
教え 2021 07