2021年文月(7月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 仏教は、無明(むみょう)という根源的な苦しみの原因を誰もが持っていると教えます。その無明とは、真実をありのままに知ることができず、それがもととなって私(我)への執(とら)われに縛られて生きる人間の姿を言い表す言葉です。つまり人間とは自我にとらわれていく中で、自他を区別し、自分にも他者にも優劣のレッテルをはり、そのことによってお互いが傷つけあっている、それが現実の姿ではないかと仏教は語るのです。また、だからこそ、このような苦しみと差別とを生み出しつづけていくあり方から人間がいかに解放されていくのかを仏教は課題としてきました。

 その仏教の歴史の中で、殊に親鸞聖人は、自己中心的な愚かさと差別する心とをどうしても避けることのできない身の事実として深く自覚した人です。それゆえに、一人ひとりのいのちの尊厳と平等性を見失いながら生きる人間を「われら」と受けとめ、その現実を共に担って歩んでいかれます。それは、「えらばず」「みすてず」皆同じく苦しみから超えさせていく教えに出遇(あ)いえたからこそ開かれた親鸞聖人の生き方です。
 そのような親鸞聖人の教えを直接聞き学んだ唯円大徳が書かれた『歎異抄(たんにしょう)』には、次のような言葉が記されています。
  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり
 人間の語る「よしあし」は、「これは善」と決めつけた瞬間に、「これは悪」という決めつけをも生み出さずにはいません。このような「よしあし」という発想のみで人のいのちを見ていけば、どうなるでしょう。歴史を振り返れば、いのちを人間の尺度で価値判断し、「価値がない」いのちは殺害してもいいというところまで人間の愚かさは突き進んでしまうことが分かります。

 『歎異抄』のことばは、そのような愚かさをもつのが人間であり、だからこそ、その人間の痛ましさ、愚かさを徹底して照らし出し、どれほど深いか想像しえないほどの、人間の闇全体を支えうる拠り所が必要であると教えているように思います。私たちの差別する心を深く強く悲しみつつ、その事実に立ち上がり、すべての人々と共に生きるあり方へとすすむ力を与えるもの、それこそがいかなる者も誰一人見捨てないと誓った阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん ※)であると親鸞聖人は私たちによびかけつづけているのです。

本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

『歎異抄』(唯円)

藤元 雅文氏
大谷大学准教授
月刊『同朋』2016年12月号(東本願寺出版)より
教え 2021 07

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「正義」とは「正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道」と『広辞苑』の最初に出てきます。これは倫理的な意味ですが、仏教語の「正義」は、「正しい意義」のことで、仏道の真理を意味します。いろいろな動物が地球上に生きていますが、「正しく生きたい」という欲求は人間特有のものでしょう。この場合の「正しく」は倫理的な意味以上に、「本当に生きる」という意味だと思います。この自分の人生が、本当に間違いのないものだと頷けるかどうか。それを人間は深いところで求めているのです。
 唐の時代の善導大師(ぜんどうだいし ※)は「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡の如し」(『観経疏/かんぎょうしょ』)と説かれます。つまり、仏教は譬(たと)えれば「鏡」のようなものだと。この「鏡」に照らしてみれば「正しく生きる」ためのヒントが見つかります。親鸞は、その「鏡」に自分の姿を映し出されて、次のように言います。
 「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意/いちねんたねんもんい』)と。意味は「私は愚かなただびとで、迷いが深く、欲望や腹立ちや嫉妬心も多く、これらの煩悩がいつも沸(わ)き起こってきて、この世を去るときまで止まることも消えることもありません」と述べています。

 私のこころは「見たくない自分」は排除し、「自分好みの自分」を貪(むさぼ)り求めます。実は、そのこころこそが「煩悩」だと〈真実〉の鏡に映し出されたのです。「鏡」は私が見たくない「ほんとうの姿」を映し出します。しかし、そこから「自分のこころ」を中心とした生き方でなく、〈真実〉という鏡を中心とした生き方へ転換して下さるのです。

善導(613~681)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 07

僧侶の法話

言の葉カード

 「私はそれほどできた人間ではない」。
 そう思っていられるのは自分のこころに余裕があるときだけで、駄目な自分を認めたくないときが必ずきます。そんな自分を素直に認めればいいのに、それができません。素直になるどころか、力のなさをごまかせるだけの何か「確かなもの」を求めてしまうのです。それが正義なのかもしれません。正義は厄介です。正義に立つと、自分がまるで万能な存在のように見えてきます。私は正しいのだから、みんなは私を責めるわけにはいかないはずだと、自分の至らなさや冷酷さに目が向かなくなります。どうしようもない自分をほったらかしにして、「私は正しいのだ!」と粋がって。そして、恥ずかしげもなく他を責めるのです。やがてそこに争いが起こります。
 ある先輩に、「人間は正しいという所に立ったとき、その人の持つ最もいやらしい面が出る」と教わりました。さらに悪いことには、そんな嫌な自分に気づかないのだと。なぜなら自分は正しいと思っているから。幾度、この言葉を思い出したことか。
 大切な先生に教えられました。「正しいという字は一の下に止まると書く。自己を正すということは、これでいいのかと一度立ち止まることだ」と。
 それが合掌の姿なのでしょう。

乾 文雄氏
大谷中・高等学校講師

月刊『同朋』2016年1月号(東本願寺出版)より
法話 2021 07

著名人の言葉

言の葉カード

 ラップの面白いところって、格差社会のなかにある貧しい人たちが声をあげるツールという非常に大事な側面があるのと同時に、立場など関係なく共通ルールで闘うことのできること、ある意味スポーツみたいなところがありますよね
 ラップはすごく純粋な詩的表現である以上に、いろいろな情報の集積なんです。そういう意味もあって、ぼくがやっているラップと、ぼくが書いている文章やラジオで話している活動は一直線なんですね。ものの見方さえ面白ければ、どんな時でもどんな場所でも面白いものになる。
 それもヒップホップから学んだことです。貧しくて何も持っていないと言っている子たちが、発想の転換というか、めっちゃすごいかっこいいもの、しかもジャージだけを着てかっこつけるみたいなね。今あるもので何とかしたいというか。だから、あれがないこれがないと無いものねだりして、人生に絶望することは簡単だけど、ちょっとこう視点を落として、ちょっと角度を変えてやったら、今あなたがいるその場所が世界で一番面白い場所になるのではないか、そんな考え方を与えてくれるのがラップなんですね。

ライムスター宇多丸氏
ラッパー・ラジオパーソナリティ

真宗会館広報誌『サンガ』172号より
著名人 2021 07