僧侶の法話

言の葉カード

 友人の結婚披露宴に出席したときのことである。新郎である友人側の主賓から、次のようなメッセージが贈られた。
「新郎には、自分の両親と一緒に暮らすことになる新婦の側に、いつも立ってほしいと思います。もしあなたが自分の両親の側につくのなら、三対一になります。そのような状態で『共に仲良くしよう』と言ったとしても、それは、自分たちの在り方や考えに同化せよ、という意味になってしまいます」。  私たちが「共に」と声高らかに言うとき、無意識のうちにマジョリティの側に身を置き、マイノリティに対し、同化を迫ることになる。私の言う「共に」が、他者にとって別の意味になる。そうしたことが往々にしてあるのだと、メッセージを聞いて強く感じた。
 近年、分断や排除をはらむ様々な事件や主張をうけて、共に生きることの大切さが叫ばれている。世の中では、以前に増して「共に」「つながり」といった言葉が使われているように思う。注目を集める凄惨な事件でなくとも、日常の些細(ささい)な出来事を前に、「なぜ共に在(あ)れないのか」という気持ちが、私自身に湧(わ)くこともある。
 そのとき、「共に生きよう」と発信することは重要であろう。しかしその「共に」は、他者の在り方や考えを、自らの都合に合わせて変えようとするものになっているのかもしれない。
 親鸞聖人の語られる「御同行」「われら」とは、人々に同一の考えを求めることを意味するのではない。それは、御念仏(ねんぶつ)の教えによって、私たちが一人ひとり異なり、傷つけ合ってやまない存在であると深く知らされた言葉ではないか。「共に」が求められる世の中だからこそ、その言葉が私の口をついて出たとき、立ち止まって考えたい。

難波 教行氏
真宗大谷派 教学研究所研究員

『真宗』(東本願寺出版)
「教研だより№149」より
法話 2020 07