もともと「世間」も「世界」も仏教語です。その世間を親鸞聖人は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」と表現します。怒り腹立ち妬(ねた)み嫉(そね)みが渦巻く「火事の家」です。その世間から脱出したいと私たちは望みます。そこから脱出するにはコツがあります。それには「火宅無常」をハッキリ「火宅無常」と映し出す鏡を持つことです。その鏡とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の光の鏡です。
その鏡があれば、「火宅無常」に巻き込まれず、静かで穏やかな自分に戻ることができるのです。それを親鸞聖人は
「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」(『浄土和讃』)
と詠います。「あらゆる仏徳(ぶっとく)の中で一番すぐれている南無阿弥陀仏を受け入れ、それとひとつになれば、過去・現在・未来の、思い通りにならないあらゆる問題も、必ずすべて転換されて軽微(けいび)なものになる」という意味です。これが「皆無」ではなく「軽微」と言われるところに味わいを感じます。
老・病・死という絶対的な不条理はなくすことはできません。ただ、阿弥陀さんの悲愛に触れるならば、苦悩を「軽微」なものとして受け取らせて下さるのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2020 02