私たち一人一人は、もともと考え尽くせないほどの無限の用(はたら)きによって成り立っています。このことに思いが及ぶならば、実は私たち一人一人には既に無限の宝が与えられていることに気づくはずです。それにもかかわらず、私たちは、自分が今、ここに生きてあることをあまりにも当然のこととしているので、それだけでは満足できないような心を持って生きています。普段の生活の中で、自分と他人を比較して、なんとなく何かが足りないという感情に悩まされることは、誰にとっても身近なことでしょう。それ故、私たちはその足りない「何か」を求めて日々苦労しています。
しかしよく考えてみましょう。何かが足りないという感情は、裏返せば足りないものが何であるのか分からないということと同じなのではないでしょうか。自分が何を求めているのか分からなければ、どのようなものを手に入れても決して満たされることがないのは当然でしょう。このようにして求めても求めても決して満たされることのない生き方を「空しい」と言うのでしょう。
本当は宝の山である人生を空しく過ごさねばならないのは何故なのでしょうか。この一文はそこまで触れていませんが、私たちが自分の勝手な考えや都合にしばられて、本当は無限の用きによって成り立っているという自分自身の事実を忘れてしまっていることにあると言うのです。そしてここに立って初めて、誰にも代わることのできない、また代わる必要のない人生の発見があると教えているのです。
『往生要集(おうじょうようしゅう)』(源信 ※)
- 源信(942~1017)
- 日本の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
大谷大学HP「きょうのことば」1997年12月より
教え 2020 02