2020年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 今年もお盆がやってまいります。多くの方々が故郷に帰り、再会した親兄弟姉妹とともに、先立ったご先祖を偲(しの)んでお墓にお参りしたり、交歓の時を持たれることでしょう。それは、私たちの心の奥に潜む〈素朴な宗教感情〉の発露でしょうか。
 しかし、故郷でもたらされるのは、快いことばかりではありません。肉親なるがゆえの感情のもつれなどもあったりして〈宗教感情〉が萎んでいき、虚脱感や淋しさだけが残るということもまた経験することです。それでもお盆の季節になると、私たちの心は帰巣本能がはたらくように故郷へ向かいます。それは〈私はどこからきたのか〉を尋ねようとしているからだと思われます。
 経典には、混迷する私たちの真相を「生じて従来するところ、死して趣向するところを知らず」(『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』)と教示しています。〈どこから来たのか、どこへ行くのか〉とは、〈私とは何者なのか〉という問いでしょう。
 バブル経済のはじけた頃から、〈自分探しの旅〉が始まりましたね。何が本当の私なのか、それがわからなければ、私の人生は虚しいではないかという心の奥深くからの問いに促されて旅立った私たち…。しかし、〈本当の私〉は見つかったのでしょうか。他人と比べて見る目しか持ち合わせない私が見つけたのは〈居心地の悪い私〉でしかありません。
 親鸞聖人は〈よきひと〉法然上人(ほうねんしょうにん ※)の導きによって本願念仏(ほんがんねんぶつ)の教法に出遇(あ)い、〈本当の私〉を確立されたのでした。教法を生きる〈よきひと〉との出遇いは、内奥の〈宗教心〉を目覚めさせ、やがてこの心が教法との出遇いを実現し、〈本当の私〉の確立に向かうのでしょう。
 お盆の一日、お寺を訪ねてご住職と〈自分探し〉をしてみてはいかがでしょうか。きっと、素敵なお盆体験となることでしょう。

法然上人(1133~1212)
日本の僧で浄土宗の開祖。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

『仏説無量寿経』

丸田 善明氏
真宗大谷派 宗通寺前住職(岩手県)
『真宗の生活』2007年8月(東本願寺出版)より
教え 2020 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「意地」という言葉で連想されるのが、「意地悪・意地汚い・意地っ張り」など、あまりよい言葉ではないように思います。しかし「意地」はもともと仏教語で、それは人間の「こころ」の在り処を教える言葉ですから、悪いものでも善いものでもありません。人間には欠かすことのできない「意識」のことです。ただ仏法は、「意識」が世界をあるがままに映してはいないことを教えます。言わば、すべてを人間の価値観で染め上げて見ているのです。
 人間は、桜の花を「桜」だと決めつけて見ています。しかし本当は、桜には名前はありません。自分を「桜」だと名乗った木はありませんから。人間が、あの木に「桜」というレッテルを貼って、分かったことにしているだけです。なんとも傲慢(ごうまん)な態度ではありませんか。
 人間の見方を押し当てて、全世界を理解し、それが正しい見方であり、それがすべてだと思い込んでいるのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2020 08

僧侶の法話

言の葉カード

 先祖と言っても、もともと多くの日本人の先祖観は漠然としたものでした。祖父・祖母、曾祖父・曾祖母くらいまでの意識です。家族形態が変化して単独・夫婦だけの世帯が増えて親子が断絶してしまった現代、ますます先祖という観念は希薄になり、そして死者観念は個人化していくでしょう。高齢化と長寿社会は「老」と「病」が結びついて「介護」「死」の問題を引き起こしました。こうした社会を生きる私たちは、自らの人生と死を無意味化させたくないので、「老いをいかに生きるか」「いかに死ぬか」と考えてしまいます。しかし、死後のことまでは考えられないのが現実です。残された者は、死者に意味を見いだせず、死を受け入れることができないでいる状況です。ですから、生者と死者が交わることはできないでしょう。「死」が世俗化して意味を喪失し、「仏」にも「ホトケ」にもなれません。儀礼も行われなくなれば、限られた時間だけの「追憶」しかありません。追憶は「救い」ではありません。
 死者と生者の関係、個人化し世俗化しすぎた社会。一人の人間として、生きることと死ぬということはどういうことなのか、意味の復権と創造が求められています。「仏教行事」という名のもとに行われてきた日本人の盆行事。これからお盆はどこへ行くのでしょうか。

蒲池 勢至氏
真宗大谷派 長善寺前住職(愛知県)

『お盆のはなし』(法蔵館)より
法話 2020 08

著名人の言葉

言の葉カード

 悲しい時や苦しい時、人はなぜ涙を流すのでしょうか。人間の理性ではどうすることもできません。生きていれば、大切な人を亡くす経験は誰にでも訪れてしまいます。現にその最中であるかもしれません。亡き人の初盆をむかえる人もいらっしゃるでしょう。
 金子大栄(かねこだいえい)という浄土真宗の僧侶の言葉に、「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる」とあります。悲しみや涙をとおしてしか出あえない世界があるということを教えられます。できれば出あいたくない悲しい出来事だったとしても、当たり前にとおり過ぎてしまっていた日常を、改めてありがたいことだったんだと気づかせてくれるはたらきが、「悲しみ」や「涙」にはあるのかもしれません。
 時に生きることに迷ってしまう私たち。耳を澄ませて、手を合わせる時間を大切にしたいものです。

ヘレン・ケラー
教育者(アメリカ)

著名人 2020 08