蓮如(れんにょ ※)の教えにふれた人が次のように言っています。
若いときにこそ、仏法(ぶっぽう)は嗜(たしな)みなさい。なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです。
この人は、蓮如の教えにふれて、仏法を聞くのは、さまざまな問題に出あう人生において本当に大事なことを聞くためであることに気づいたのでしょう。だから、老いた精神で仏法を求めることはできない、人生をどのように生きようかと悩む若々しい精神によってこそ仏法は聞くことができると言うのです。
蓮如の弟子のひとりは、「九十歳まで教えを聞いてきたが、これでわかったということもなかったし、厭(あ)きたこともない」と 語ったそうです。ここに、いつも新しい問いをもって生きていく若々しい精神があらわれています。本当に聞くべきことを求めていない人こそ精神の老いたものではないでしょうか。仏教を求めてきたのは、いつも固定したものを打ち破る勇気をもち、問題意識に満ちた若い魂でした。仏法を求める人が「童子(どうじ)」として呼ばれるのは、このような若々しい精神をあらわしているのです。
では「仏法はたしなめ」とはどういう意味でしょうか。「たしなむ」というと、「多少、お酒をたしなみます」というような意味で使われることが多いように思います。もし、そういう意味で仏法をたしなむのであれば、「若くて元気なときに、仏法を学ぶことを心がけなさい」というほどの意味でしょう。
しかし蓮如は、仏法において「たしなむ」ということは「仏恩(ぶっとん)を嗜む」ということであって、世間でいう「たしなむ」ということではないといわれています。「たしなむ」とは、自分であれこれと「心がける」ことではなく、仏法の教えを聞くことによって、人生において本当に大事なことを忘れて生きていることを教えられ、そのようなわが身を深くかえりみて、人生において本当に大事なことを思いだして生きることであるというのです。
仏法は、ただ一度の繰り返すことのない、誰とも代わることのできない人生をどのように生きるのかという問いから始まります。だから生きていくことに問いをもつ若々しい精神があるときにこそ、仏法を心にかけて生きてほしいと、蓮如は言うのです。
- 蓮如(1415~1499)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)
大谷大学HP「きょうのことば」1998年4月より
教え 2020 04