現代社会は今、豊か過ぎるくらい何でもありますが、その中で何がないかといえば、恐らく「安心」や「尊ぶ」ということではないでしょうか。いつ、どんな形で病に襲われるかわからないし、長く生きれば確実に心身の機能は衰えていく。そして、間違いなく命を終えていかなければならない。それは自分だけの問題ではなく、愛する人ともそのようなことが起こってきます。
そのようなことに顔を背けず、ごまかさず、逃げずに引き受けていける世界がどこにあるのでしょう。「何が起こっても安心して生きていける」ということは、「苦しさやつらさが解消する」という意味ではありません。苦しいけど安心していられる。不安だけど安心していられる。そのベースとなるところの地に足が着いているかという、その大地を信頼できるかというのが「安心」です。
本来仏教は、私たち人間がどのように尊く生きられるか、安心して生きられるかということを考える教えなのですが、生活の中からそれらが抜けてしまった。
お参りする時に、手を合わせる先は本尊です。本尊というのは、「本当に尊い」ということ。手を合わせる行為は、「私にとって本当に尊いということはどういうことなのか」ということを確かめ、問うことです。そういう営みなはずなのに、私たちの日常の中で「尊く」ということが抜けてしまっているのではないか。実際に、「尊いということはどういうことですか」と聞かれると上手に答えることができにくいでしょう。
例えば、強い人、賢い人、美しい人、やせた人と、これらには順番がつきます。しかし、「尊い」人には序列や順番がつきません。いかなる境遇にあっても安心して生きていける道。それが何であるのかということが、仏教のテーマです。歳を取っても、病気になっても、大事な人と死に別れることになっても、自分自身の死ということが迫ってきても、それでも毎日を意味のある人生として、あるいは、尊い人生として生きていくというのはどこで成り立つのかということでありましょう。
真城 義麿氏
真宗大谷学園専務理事
丸の内親鸞講座より
法話 2019 10