私の祖父は「仏さまの教えに出遇(あ)った人は、毎日の生活が報恩講(ほうおんこう ※)なのです」と先生から教えられたそうです。報恩講の“恩”という字は『ツルの恩返し』と同じ字を書きますが、毎日が恩返しならば大変ですね。はたして報恩講とは、何かの恩返しをすることなのでしょうか。
学生時代に「君たちは育ててもらった恩を、家族に返せましたか」と質問されたことがあります。しかし、クラス全体で数人しか手をあげられませんでした。その時「手をあげた人は、恩の深さを本当にわかっていますか。一生かかっても返しきれるものではありませんよ」と先生は言いました。手をあげた人が間違っているということではなく、返したつもりでも、いただいた恩は決して返しきれない深いものだと、先生は教えてくれたのです。その大切さに本当の意味で気づいた時、初めて「返しきれない」という気持ちがおこってくるのだと気づかされました。
子どもの頃「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」とお参りしているおばあさんに「手を合わせて何をお願いしているの」とたずねると、「うらはお礼をとげにきただけや」とこたえてくれました。これは私の地元の方言で「私はありがとうと伝えに来ただけですよ」という意味です。そこに“〇〇してくれたからありがとう”とは違う、もっと深いありがとうを感じました。ご恩を返しきれない、申し訳ないという気持ちと、そのような自分にも仏さまの教えが届いたという感動が、おばあさんの「南無阿弥陀仏」という声になって現れたのだと思います。報恩とは恩を返すことではなく、このように感動して心からありがとうという気持ちが湧き上がってくることです。そして、その気持ちを忘れないように大切にすることが報恩講なのです。
- 報恩講
- 浄土真宗で大切にしている仏教行事。親鸞の祥月命日にあたる法要。
松扉 覚氏
真宗大谷派 本泉寺(石川県)
真宗大谷派青少幼年センター
子ども会情報紙『ひとりから』第6号より
法話 2019 11