暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「魔が差した」。この言葉ほど怖いものはありません。手に負えないからです。どんなに人格者であっても、どういうわけかしてはならないことをしでかしてしまうのです。あの人に限ってそんなはずはない…などの言葉もかき消されてしまいます。
 さて、この魔(māra/マーラ)は、殺す、破壊する、邪魔する、障碍(しょうがい)する、誘惑するなどが原意です。人間が目的に向かおうとする歩みを邪魔し、さまたげ、本来人間として歩むべき道を迷わせ、自分自身を破壊しダメにしてしまうものです。
 ところで、釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)が菩提樹(ぼだいじゅ)の下で初めて開かれたさとりを「降魔成道(ごうまじょうどう)」と言います。魔を降伏させた時(降魔)、そこにそのまま歩むべき道が成立したこと(成道)を指し示している教えです。
 私たちは苦悩の原因を自分の外に見つけ、そしてその原因をなくしてしまえば苦悩はなくなると考えます。いわば、魔を外に見て魔を破壊させようとするのです。ところが釈尊は、わが身を縛っている苦悩の原因は、ほかならぬ自分自身にあることに目覚められた。つまり魔の正体を発見(正覚)されたのです。すると魔は手出しができず、力を失い退散します。魔を殺すのではなくその正体を見破って力を失わせる。これが釈尊の目覚めであったのです。
 では魔の正体とは何であり、何が歩みをさまたげているのでしょうか。それはわが身の内に気づかずにはたらいている無明(むみょう)・煩悩(ぼんのう)にほかなりません。ところが、魔が自分の外にあると考える限り、実体化され絶滅されるべき対象となるのです。
 人類の歴史は、無明・煩悩という魔の正体に気づかぬまま、善神にこと寄せて魔を実体化し(※)、撲滅(ぼくめつ)しようとし続けてきた歴史でもあります。人類の業縁(ごうえん)の根深さから目をそらさずに世間を問い直すことが願われているように思われます。

※物事の善悪を切り離して、良事のみ自己に受け入れ、悪事を他人事として排除する考え方。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 11