この言葉は、本願寺第八世である蓮如(れんにょ ※)の言行を集録した書物、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中にある文章の一部です。この中で、蓮如は次のように言います。
心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀(みだ)の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。
(自分はよく心得ていると思っている者は、実は心得てはいないのです。自分はまだよく心得ていないと思い、教えを聞く者は心得た者なのです。この愚かな自分が阿弥陀仏(あみだぶつ)に助けられることが、なんと尊いことであるかと喜ぶのが心得たということなのです。ですから少しも自分は心得たと思うことがあってはなりません)
蓮如は、「心得たと思う」人は、実は心得てはいないのだと言います。これは一体どういうことなのでしょうか。ここで言う「心得たと思う」人とは、もう十分に自分は「分かった」という思いの中に閉じこもってしまっている人のことを指します。この人は、自分が得た知識を頼みとし、謙虚に教えを聞く姿勢を失っているのです。ですから、蓮如は、自分の知識や能力を頼みとするのではなく、阿弥陀仏の智慧(ちえ ※)に教えられて、自分は十分に心得ていない愚かな身だと自覚すべきであるということを伝えようとしているのです。
この蓮如の言葉は、私たちの学びの姿勢を問い直す力を持った言葉であると思います。
私たちは様々な教えを学んでいく上で、「分かった」という体験を持つことがあります。しかし、その体験はもしかしたら単なる「思い込み」や「勘違い」であるかも知れません。更に言えば、問題なのは、それが「思い込み」や「勘違い」であると、なかなか自分自身では気づけないことなのです。だからこそ、謙虚な姿勢で教えを聞き、学び続けることが求められるのでしょう。
- 蓮如
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
- 智慧
- 知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。
『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)
大谷大学HP「きょうのことば」2012年3月より
教え 2019 05