仏教では、「他力」とは私たちの思いを超えた仏さまの「本願(ほんがん ※)」のはたらきや力をいうのです。他人任せということではありません。
一方、他力の反対は「自力」です。そこで自力について親鸞聖人のお言葉に尋ねてみますと、「自力というは、わがみ(身)をたのみ、わがこころ(心)をたのむ、わがちから(力)をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひと(人)なり」とあります。※( )内筆者
私たちは日頃、自分の身体や心を基礎にして、自分なりに努力して、自分がよかれと思うことを行い、自分の期待する幸せを求めて生きています。
ここで「たのむ」という意味は、ちょうど私たちが空気を吸っているのに、そのことにまったく気づかないようなもので、たのんでいることすら気づかない、それほどたのんでいる、という意味です。すべてが「あたりまえ」なのでしょう。
ところがいつも、その「あたりまえ」が壊されて、こんなはずじゃなかったと途方に暮れます。そして行きづまってしまうのです。自力で行きづまったのですから、なんとか自力で克服しようと試みますができません。
水の中で溺れそうになった人が、自分の髪の毛をつかんで上に引っ張り上げようとしても、つかんでいる身体全体がズブズブと沈んでしまい、引き上げることができないようなものです。
だから、克服するには自力を超えたものとの出会いが大切です。自分の思いの範囲を超えたはたらき、他力との出会いが欠かせないのです。
親鸞聖人は「他力と言うは、如来の本願力なり」というお言葉で確認してくださっています。仏さまは片時も休まず、この私一人のために、呼びかけ呼び覚まし、願ってくださっているのです。そのはたらきに気づく時に、仏さまの大きな本願の力、つまり「他力」に頭が下がるのです。気づいてみれば、私たちは仏さまの呼びかけのなかに願われて生きていたのです。
そしてまた、呼びかけられてみて初めて、自分の思い込みの根深さに気づかされてまいります。嘆くべきは境遇の不幸ではなかった。悲しむべきは、わが思い込みの根深さに鈍感であり続けてきたわが身自身でありましょう。他力に出会うことによって初めて、境遇を担って生きる、本当の独立心が開かれてまいります。おかげさま、なのです。
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 03