2019年如月(2月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 この言葉は『ダンマパダ(第17章「怒り」)』のなかの言葉です。このことばを含む全体は次の文章です。
怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
 怒りを捨て、慢心を捨て、煩悩(ぼんのう)としての束縛を無くし、名前と形とを持つもの、つまりわれわれの目の前にあるものを欲しがらず、所有物のない者には、苦悩がないと言われています。怒りなどの煩悩を捨て、何も所有していない者には苦悩がない、つまりすべての煩悩を捨てた者には苦悩がないという意味です。
 旅に出るときは最小限の荷物で身軽な方が楽しいものです。人生もそれと同じです。さまざまな重い荷物は、それだけで苦しくなってきます。怒りや欲望という苦しみの原因となる荷物は捨てるべきです。社会や職場や家庭のなかでのさまざまな人間関係それ自体は善でも悪でもありません。しかし、その関係に対して執着すると、もしくは嫌悪するとそれは苦しみの原因となります。そういう執着や嫌悪という煩悩は捨てるべき荷物です。
 それでは煩悩を捨てるにはどうすればいいのでしょうか。『ダンマパダ』第20章「道」のなかでブッダ(お釈迦さま)は「もろもろの道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道〉が最もすぐれている」と言います。これは正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい注意、正しい精神統一という仏教の実践的手段である八正道(はっしょうどう)のことです。
 そしてブッダは続けて次のように言います。「これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道はない。汝(なんじ)らは実践せよ。…汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう」。仏教は単なる学問ではなく、知識と実践をともなう宗教です。知識だけではなく実践することの大切さをブッダは説いています。

『ダンマパダ』(原始仏典)

大谷大学HP「きょうのことば」2013年2月より
教え 2019 03

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 仏教では、「他力」とは私たちの思いを超えた仏さまの「本願(ほんがん ※)」のはたらきや力をいうのです。他人任せということではありません。
 一方、他力の反対は「自力」です。そこで自力について親鸞聖人のお言葉に尋ねてみますと、「自力というは、わがみ(身)をたのみ、わがこころ(心)をたのむ、わがちから(力)をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひと(人)なり」とあります。※( )内筆者
 私たちは日頃、自分の身体や心を基礎にして、自分なりに努力して、自分がよかれと思うことを行い、自分の期待する幸せを求めて生きています。
 ここで「たのむ」という意味は、ちょうど私たちが空気を吸っているのに、そのことにまったく気づかないようなもので、たのんでいることすら気づかない、それほどたのんでいる、という意味です。すべてが「あたりまえ」なのでしょう。
 ところがいつも、その「あたりまえ」が壊されて、こんなはずじゃなかったと途方に暮れます。そして行きづまってしまうのです。自力で行きづまったのですから、なんとか自力で克服しようと試みますができません。
 水の中で溺れそうになった人が、自分の髪の毛をつかんで上に引っ張り上げようとしても、つかんでいる身体全体がズブズブと沈んでしまい、引き上げることができないようなものです。
 だから、克服するには自力を超えたものとの出会いが大切です。自分の思いの範囲を超えたはたらき、他力との出会いが欠かせないのです。
 親鸞聖人は「他力と言うは、如来の本願力なり」というお言葉で確認してくださっています。仏さまは片時も休まず、この私一人のために、呼びかけ呼び覚まし、願ってくださっているのです。そのはたらきに気づく時に、仏さまの大きな本願の力、つまり「他力」に頭が下がるのです。気づいてみれば、私たちは仏さまの呼びかけのなかに願われて生きていたのです。
 そしてまた、呼びかけられてみて初めて、自分の思い込みの根深さに気づかされてまいります。嘆くべきは境遇の不幸ではなかった。悲しむべきは、わが思い込みの根深さに鈍感であり続けてきたわが身自身でありましょう。他力に出会うことによって初めて、境遇を担って生きる、本当の独立心が開かれてまいります。おかげさま、なのです。

本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 03

僧侶の法話

言の葉カード

 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の「南無」というのは、頭が下がるということ。「阿弥陀」は無量、はかることがないということです。いのちそのものの事実は、はかることを超えています。私が今のこの私になってきた背景には、親があり、おじいさん、おばあさんがあり、その前からとずっと続いてきた私のいのちの歴史、事実があります。それは、私の思いをはるかにを超えて、いのちとしてあるのです。
 しかし私たちの日常の思いは、はかることばかりです。大きさや高さ、それから速さで数としてはか(量)り、計算し計画を立ててはか(計)る。そして自分に都合よく人生を生きていこうと、はか(図)りごとをします。
 そして悲しいかな、はかることの中にしか、私たちは生きていけないという面もこの私の現実としてあります。上下、優劣、損得、生と死。そしてこのいのちそのものまでもはかろうという思いが湧いてまいります。
 しかし、いのちそのものは、はかることを超えている。子どもを授かった親も、また生まれてきた子どもも、それぞれ自分の都合を超え、選ぶことを超えている。時代も国も、そして民族も。親も子も選ぶことを超えて、いのちそのものは、今、ここに私が生きている。それが私のいのちの事実です。
 ですから「南無阿弥陀仏」という言葉は、いつもはかりごとをしている私に「阿弥陀」に「南無」せよと。いのちの事実は、はかることを超えているんだ。その事実に「南無」しなさいという促しなのです。「いのちの事実に立ち返りなさい」、「事実を事実として受け止めなさい」。そして、「本当にそうだ」という事実へ頭の下がったうなずきこそが「南無」という世界なのでしょう。

二階堂 行壽氏
首都圏教化推進本部員

エンディング産業展2018 ミニセミナー
「通夜・葬儀・法事は誰のために勤めるのか」より
法話 2019 03

著名人の言葉

言の葉カード

 人は自分に価値があると思えたら勇気を持つことができます。私の役目は、カウンセリングをとおしてその援助をすること。ここでいう勇気とは、対人関係の中に入っていく勇気です。対人関係とは煩わしいもので、人と関わると摩擦が生じてしまいます。嫌われたり、憎まれたり、裏切られたりすることもある。けれども、生きる喜びや幸せも、また対人関係の中でしか得ることはできない、ということに気がついてほしいのです。だからこそ子どもたちや若い人たちに、対人関係の中に入っていく勇気を持ってほしい。自分なんか大した人間じゃないと思っていたら対人関係の中に入っていけないものです。
 自分が貢献していると思えれば自分に価値があると思えます。重要なことは、その貢献は行為ではなく、「生きている」ことでできるということ。生きているということが、そのまま貢献しているのです。
 今の社会では、どうもこのことが見逃されているように感じます。何かができないと自分に価値がないと思わされてしまう。全くそんなことはないでしょう。私たちが生きていること、それ自体に価値があると思えるかどうかが大切なことなのです。
 自分でそうは思えないという人が周りにいたら、「あなたが生きていることが周りの人にとって喜びであり、生きていること自体でそのまま貢献している」ということを伝えていってほしいし、それは恐らく、カウンセラーの役目だと私は考えています。

岸見 一郎氏
哲学者

公開講演会
「援助するということ-アドラー心理学の視点から-」より
著名人 2019 03