漢字で表現される場合ももちろんあるのですが、最近では「ビミョウ(ビミョー)」とカタカナで書かれている場合も多く目にします。確かに時代とともに微妙という言葉の意味に変化がみられます。会話のように「ビミョー」と使われる時には、今の状況が不安定で割り切れない状態になっている場合で、どちらかといえば、うまくいっていない方に傾いているニュアンスです。「合格するかビミョー」。困ってしまう、悩んでしまう、なんとかしてくださいよ、とつぶやいているようです。ところが「微妙」の意味は本来は正反対で、悩みの種になるどころか、悩みを克服していく出会いを意味している仏教語なのです。
仏教では微妙と書いて「みみょう」と読みます。言い尽くせない奥深い意味合いがあるということで、もともと肯定的で積極的な意味をもっているのです。
私たちが親しんでいる「三帰依文(さんきえもん ※)」があります。そのなかに、「無上(むじょう)で深甚(じんじん)にして微妙なる法」との出会いが大切であると書かれています。
ちっぽけな、身勝手な人間の解釈ではおさまらないほどの深さ、広さ、豊かさを内容にしている仏法。私たちは、それを背景にして今ここにこうして生きている。それに出会い、自分の思い込みを超えてこそ、限りなくわが身を丁寧に生きることができると教えてくださっています。気づかされてみれば、本来、落ち込む必要もなく、目先のことばかり考えてクヨクヨする必要もないのでしょう。
人生、生きてみれば実に豊かで頭の下がることばかりだと知らされてまいります。ですので、その出会いをご縁にしてこそ、いよいよ教えられ育てられて歩むわが身をいただくのです。限りなく人生を生きることができるのであります。人生に限界はありません。
しかし、そのなかにあって、閉ざしてしまっているわが身の狭さが知らされてきます。したがって、微妙なる仏法を仰ぎ、同時に知らされてくるわが身自身の狭さとたたかうこと。それが自らを生きることであります。
- 三帰依文
- お釈迦さまが説かれた「法」、法に目覚めた「仏」、法を依りどころとする人の集まり(=「僧」)の3つを「三宝(さんぼう)」といい、「そのことを大切な宝ものとして生きていきます」と、法話の前などに唱和される文。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 06