「老病死」とは何でしょうか。青年ゴータマ(※)の四門出遊(しもんしゅつゆう)の物語(※)では、老病死を見て、大いなる憂悩(うのう)を生じたとあります。「私もまた必ず老いて、あるいは病いにかかるのだ。どうしてほしいままに身も心もゆるして楽しむことができようか」と。老病死を見て、これまで楽しみ喜んできたことが、そのままに喜べなくなってしまったと言っているのでしょう。
では「老」いの苦とは何でしょう。さまざまに言えるでしょうが、最も重いのは、さびしさや孤独でしょう。「病」いの苦は、同様に言えば、無力さでしょうか。そして「死」の苦は、空しさと不安でしょう。老病死の苦はみな重なっていて、一言でいえば、ひとりで死んでいかねばならない不安であると言うことができます。老病死という身体の事実を、私たちはこのように苦しみとして感じ受けとめ経験しているのです。それを老病死の苦と言うのです。
もう少しだけ掘り下げれば、ひとり死にゆくものであることの苦しみとは、結局何のために生きるのかわからない、生きることに意味がないのではないかと、生きる意味を疑う苦しみなのです。このような疑いの中では、希望をもち、意欲して生きることができません。また、生まれてきてよかったと喜び、満足して死んでいくこともできません。
これが人間にのみ起こる経験であり、人間であることの証なのです。衆生という地平で起きていることなのですが、本当に不思議なことですね。老病死する身体をもって生きているのですから、老病死のない生命を生きるなどということはありません。しかし、いま見てきた経験は人間であることから起こっているものだというところに、この死への生という問題を解く鍵が秘められているのではないでしょうか。
- ゴータマ
- お釈迦さまの青年時代の名前
- 四門出遊の物語
- 四方(東西南北)の城門から外へ出た際、東門では老人、南門では病人、西門では死人(葬列)、北門では出家者に会ったことがきっかけで出家の道を選んだとされる物語。
「ブッダの言葉」宮下 晴輝氏
大谷大学名誉教授
月刊「同朋」2017年11月号より
教え 2019 01
日頃、教育を受けて十分な教養や知識のある人を「学の有る人」と言います。「すごいね、あの人は学の有る人だから」と。どうも「優れた人」と評価されるようです。
一方、その反対に教養や知識のない人を無学な人と言います。「私って無学なものですから」と謙遜したり卑下してみたり、また「あの人って無学ね」と軽蔑してみたり。どうも「劣った人」と評価されるようです。
実は、この学の有る人、無い人という言葉は仏教語にもあるのです。「有学」と「無学」です。しかし意味はまったく異なっています。仏教語では、学のある人が優れた人でもなく、学の無い人が劣った人でもないのです。両方とも平等に尊いという意義のあることが大切です。なぜでしょう。
仏教で「無学」とは、学ぶことを学び尽くしてもう学ぶことがまったく無くなっている人を意味します。「学が無い」という意味ではないのです。一方「有学」とは、学ぶことが有る、いまだ学び尽くしていない、学びの途上にある者を言います。「学が有る」という意味ではないのです。だから、有学の人はどこまでも新しい課題を発見し、その課題に生きる者といえましょう。
人間は様々な悩みを抱えて生きていきます。悩みは一見生きていく上での壁のように感じられます。「この悩みさえなければ」などとぼやいたりします。悩みを無くしてしまうことが問題の解決だと考えてしまうからです。しかし、悩み無きところには問いは生まれず、問い無きところには学びもありません。歩みも止まります。
したがって、悩みを否定せずに、悩みを手立てに新たなる課題に生きる「学びの人」「歩みの人」こそが「有学の人」であります。
また、その有学の人には、学び尽くして学ぶことがすでに無い「無学の人」がおられるのです。だからこそ、有学の人は無学の人の確かな呼びかけに出会い、信頼し、いよいよ人生の学びを尽くしていくことができるのです。まことに、悩みは乗り越えるべき人生の課題であり、新たなる世界を開く扉であります。そのことを、「無学の人」は語りかけてやみません。有学の人も無学の人も共に「尊き人」なのです。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 01
この言葉は、藤原正遠(ふじはらしょうおん ※)先生の言葉です。今の時代、私どもの社会は行き詰まらないようにすることが無言の圧力になっているように思います。快適で、効率よく、迅速に、ものごとを処理していくことが暗黙の生活信条になっているから、時間がかかり、回り道が多く、苦労のたえないことは、無駄なこととして切り捨てられる。
まして、どうすればいいかわからず、立ちすくんでしまうことは失敗であり、行き詰まった者は人生の落伍者だと烙印を押される。行き詰まることが人生の破綻であるかのような風潮の中で、「勝ち組」、「生き残り」といった言葉が大手を振ってまかり通っている社会は病んでいる。
何が行き詰まっているのか。思いが行き詰まっているのです。自分の都合のいいように、自分の思い通りにしたいという思いが現実に直面して、「こんなはずではなかった」、「どうにもならない、もう駄目だ」と行き詰まっているのでしょう。
私どもを生かしているいのちは、思いはどうであろうとも、単純に現実、事実の身をそのままに生きている。行き詰まることは、たしかに困ったことだし、できることなら避けて通りたいことですが、行き詰まった時がチャンスだと言えます。自分勝手な思いが破れて、本当の自分に立ちかえる、人生の一番尊い時の訪れでもあるのです。
- 藤原正遠(1905~1997)
- 石川県、真宗大谷派僧侶。
狐野 秀存氏
大谷専修学院長
「サンガ」№136より
法話 2019 01
子どもたちの吸引力、それを生きる力に変えていく力というのはすごい。新鮮な目覚めにあふれている。それをキャッチすることが大切です。詩のワークショップや授業で一番気を付けていることです。感性、人間の感じるこころというのは言葉からではない。言葉に魂があり、必ず実感、体験が関わっている。そこから言葉を子どもたちから引き出してあげると、すごく説得力のある言葉が現れてくる。それが大人たちのこころを揺さぶるということがあります。
震災を経験して、それに遭遇したことがありました。石巻の仮設住宅、避難所で暮らしていた、当時小学校5年生の男の子の詩です。「ありがとう」という詩であり、その内容というのは、全国から支援の手があって、支援物資があって、例えば「扇風機ありがとう」、「色鉛筆ありがとう」、「ランドセルありがとう」。当時、石巻で仮設住宅にいて、たくさんの支援とボランティアの方に「ありがとう」という言葉を伝えたいという思いで書かれた詩でした。「焼きそば作ってくれてありがとう」、「勉強を教えてくれてありがとう」、「励ましの言葉ありがとう」。その一番最後に「おじいちゃんを見つけてくれてありがとう」という詩があった。
この「おじいちゃんを見つけてくれてありがとう」というのは、津波で流されてしまって、そして行方不明になった祖父を見つけだしてくれてありがとう。最後に「ありがとう。さよならすることができました」で言葉が終わっているんです。
当時、この詩を石巻や東北、宮城県の方々は、こころの支えにしているところがあって、たくさんの行方不明者、そして津波で流された方がいらっしゃったご家族が、その詩を大事に持っていたということがありました。子どもの言葉が、そういう状況において、どれだけ大人のこころを励ますかということを、私はその詩から教えてもらったように思います。
和合 亮一氏
詩人、国語教師
サンガネット特別シンポジウム
「人間を支えるモノは何か」より
著名人 2019 01