『歎異抄(たんにしょう)』という本の最初のところに、著者である唯円が「耳の底で聞いた」という言葉があります。言葉というのは、耳の底で聞くんだというわけです。耳の底で聞くということは、声になっていない。声というのは耳で聞くわけですから、耳の底で聞くというのは声ではなく、声にならぬ言葉でしょう。
唯円は『歎異抄』という本を書くにあたって、耳で聞いた言葉ではなく、耳の底で聞いた言葉を、言葉の力を借りてどうにか後世に伝えようとされた。それが私の役割なんだ、ということが、私はこの本が書かれた一番大きい動機に見えるんです。
人は目で見る言葉、耳で聞く言葉というのをもちろん記憶することもできますが、耳の底で言葉を聞く。耳の底で聞いた言葉を、自分の心の奥底に生かしておくということはどういうことなのかということが、すごく大事だと思うのです。
「私の大事な言葉はこの言葉です」と言えるような言葉もあります。それはそれで素晴らしいし、それは強く自分を支えることもあるんだ、とも思いますが、人の人生を根本で生かしている言葉というのは、すごく平凡で、すごく凡庸で、もしくはその言葉を人前で話したら、「え?何その言葉」と言われるような言葉だと思いますね。
私たちはその中で、言葉を探さなくてはいけない。もしくは相手に言葉を贈らなくてはいけないとなったら、あまりそんな難しい言葉ではないような気がします。だから言葉を受け取るのも、どれだけ凡庸な、しかし素朴で力強いものを受け取れるかどうかというところに、すごく大事なところがある。そうだなと思うような、深い気付きを与える言葉も、もちろん悪くはありませんが、その気付きを覚えるよりも、もっと深いところで、私たちは日々の「生」を生きている。そこを照らす言葉というのに出会えるといいなと思いますね。
若松 英輔氏
批評家
サンガネット特別シンポジウム
「言葉×仏教 人間にとっての”物語”を考える」より
著名人 2019 02